2022年06月13日 19時56分
置土産
僕は習慣を変えるのが苦手だ。新しい場所や人間関係もそうだし、使い続けてきたものだってそう。
つまり変化が苦手。表面上はのらりくらりとやり過ごせるけど、内心では雨水がポタポタと溜まっていくようにストレスが重なっていく。
外と関わること、昔は学校、今は勤め先ではそれもしょうがないかと思えるし、嫌な変化や人間関係でも飲み込むしかない。折り合いをつけるという言葉を知ってからは、みんなもある程度そうしているのだろうと思えてちょっと楽になった。
そんな僕にとって家の中は聖域だった。就職を機に引っ越して住み続けている、六畳と四畳半の二間が並ぶ僕だけの聖域。変化は僕がそうしようと思わなければ起こらない。
いちおう六畳がテレビとかソファとかが置いてある居間で、四畳半が寝室兼物置みたいになっている。と言ってもどちらにも置いてある物は少なく、家にやってきた人はたいてい片付いてるねと感心する。
でも僕からすると片付いているのではなくて、ピースの欠けたパズルのような、あるべきものがそこにない不自然な空白に見えてしまう。例えばアロマの瓶が置かれていた木製のテレビ台の脇、居間の脇に立てかけられていたヨガマットと化粧品とかが入れられたカゴ、三段並んだ一段だけが綺麗に空の衣装ケース。
部屋のそこここに、空白となって彼女の痕跡が残っている。
二口コンロのキッチンに並ぶ調味料や調理器具も、洗面所に置いてある歯ブラシも歯磨き粉も気がついたらずっと同じメーカーの同じものを使っていた。パスタやそのソース、洗顔料やシェービングクリームにしたってそう。同じ物を使い続けてきた。
でもボディソープとシャンプーは、彼女の趣味のものに変えられてしまった。
「わたし匂いだけはこだわってんだよねえ」
なにかにつけて大雑把な人だったのにそこだけは譲れないらしく、僕も同じ物を使うように求められた。
僕がこれまで使ってきた、なるべく匂いがあまりしなくて値段もそんなに高くないそれらは、そのとき使っていたものが最後になった。代わりに風呂場に並んだのは、彼女の趣味のミルクみたいな匂いがするボディソープに、花みたいな匂いがするシャンプー。
最初はやたらいい匂いが時折漂う自分に違和感があったけど、彼女のものが家に増えるのと同じくらいのペースで馴染んでいった。無味簡素なビスケットにシロップが染み込んでいくようにひたひたと。
身体を重ねたあとの映画のエンドロールのような時間、彼女は布団に埋もれる僕の頭や胸元に顔を近づけてすんすんとにおいを嗅ぐことを好んだ。
「おんなじにおいになるはずなのに、ちょっと違うにおいがする」
「えっ、臭かった?」
不安になって脇のあたりに鼻を寄せてにおいを嗅ぐと、彼女はクスクスと笑った。そうするとできる、無防備なえくぼが僕は好きだった。
「違うよ。まったくおんなじになったらつまんないし、たぶん惹かれるってこともないと思う。好きなにおいだよ」
「そう、よかった」
そのくせお返しに嗅ぎ返そうとすると恥ずかしがって嫌がり、じゃれ合っているうちにもう一回なんてこともあった。そのときの彼女からは、甘く熟れた夏の花みたいな匂いがした。普段はそんなににおいなんて感じない人だったのに、終わったあとのシーツにはその匂いが深く染み付いた。
彼女が帰ったあとの空白を、僕はそのシーツの匂いに包まれることでしのいだ。もちろん翌日には洗濯したけど、洗濯機に放り込む前に顔を寄せて、胸に深くそのあまいあまい匂いを吸い込んだ。
それで肺は満たされても心は満たされず、すぐそばに彼女がいないことを思い知らされて余計に寂しくなって、スマホを前に連絡するかしないか頭を悩ませた。そんなときに彼女から連絡がくると、それだけで運命じみたものを感じてしまっていた。
僕と正反対で気まぐれで移り気な彼女が去ってしまった部屋は、今日も色を失ったように佇んでいる。雨に濡れて帰ってきた僕の目にはなおさら灰色に見える。
湯を沸かしながら熱いシャワーを浴びて、手に出したシャンプーを泡立てる。彼女は手でシャンプーを泡立てるのが上手く、すぐに綿飴みたいなもこもこした泡にできたのに、僕がしても不器用な指先すら隠せないほどの泡しかできない。
それでも髪につけてガシガシとやればもこもこと泡立つ。そして花みたいな香りがバスルームに漂う。
彼女の髪からはもっと甘く香ったのに、僕の髪からは手に出したシャンプー以上のにおいなんてしてこない。いくら泡立ててもその香りにはならないとわかっているのに、僕はごしごしと泡立て続けた。何回も何回も、同じ物を詰め替えて使い続けても無駄なのに。
シャワーを使おうと顔を上げると、風呂場の鏡に僕が映っていた。真っ白い鳥の巣を乗せたみたいな頭になっていて、それがひどく滑稽で彼女が見たらあの顔で笑うだろうなと思った。
彼女がいない空白はえくぼよりもはるかに大きく、いびつにへこみ、僕はまだその変化を受け入れきれずにいる。