みそ(業務用)の日記

2019年01月21日 22時34分

『  』

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耳の奥にはまだ彼の物語る声が残っている。弦楽器のように細くてしなやかで、私の中心をたやすく疼かせるその声が。蝋燭のように頼りない明かりが照らすベッドの上で、彼はいくつもの寝物語を語った。
情事の後の火照った頭と身体を包み込む数々の物語は息を呑むくらい幻想的で、熟練の娼婦のように淫靡で、救いようもなく残酷で、私はすぐ虜になった。麻薬のように先を知りたくなって彼はいつ来るのかとうずうずした。
彼はいくら懇願しても情事の後にしか物語を聞かせてくれなかった。それが契約だと言っていたけど、誰と交わしたなんの契約なのかは教えてくれなかった。
彼の物語は『  』という怪物の話だった。『  』の名前は誰も知らない。知ってしまえば『  』に魅入られ、深い絶望の淵へと沈められてしまうのだと彼は言った。『  』は姿形を変えてあらゆる時と場所に現れた。
あるときは冷酷な娼館の主。あるときは残忍な殺人鬼。あるときは王を狂わせる傾国の美女。この世に溢れるすべての凄惨な出来事に『  』が関わっているかのようであった。
『  』は狡猾で人を苦しめることに長けていた。悲嘆し絶望する人を見て狂おしいほどの愉悦を覚える歪んだ存在だった。
彼は『  』の行いをまるで見てきたかのように生々しく語った。純潔を貫かれた乙女の絶叫。生きた人間から臓物を引き出すときの生暖かさ。狂った王が蟻を踏み潰すように民を処刑する様子。私は狭いベッドの上から一歩たりとも足を踏み出していないはずなのに、それらは目の前で起こった現実のように思えた。
残酷な物語であればあるほど私はのめり込んだ。もっと深くて暗くて、身震いするほどおぞましいものを見たい。その思いに駆り立てられ私は幾度も彼と交わった。
象牙のように滑らかな指先になぞられると私の身体は容易く火照った。石榴のように怪しく潤んだ唇は私から理性を貪り尽くした。グロテスクな曲線を描くそれは私に気が狂うほどの快楽をもたらした。
気だるくまどろむ私の耳に、熱を帯びた吐息まじりの物語が入り込む。それは濡れた奥底で混じり合い、私を内側から捉えて離さない。
今彼が語っているのはひとりの女の物語だった。