2018年08月08日 21時11分
微発酵探偵ミソーン 第九.五発酵
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ナギサは僕みたいな頼りない夫を持っても愚痴ひとつこぼすこともない、我慢強いひとだった。だからなのだろうか。ナギサの身体を蝕む病が見つかったときには、すでに治療もできないくらいに手遅れだった。
猫効果なのかお店には常連さん以外のお客さんも増えて、すっかり経営も安定してきたころ。僕たちの間に子どもはできなかったけど、これからもふたりで猫たちとともに、日々のささやかな幸せを見つめて生きていくんだと思っていた。それなのに絶望はいともあっさりと、その小さな希望を黒く塗り潰した。
「ちょっとはりきり過ぎちゃったみたい」
ベッドの背にもたれるようにして、ナギサはいたずらが見つかった子どものように笑った。僕は何も言えずベッドの脇にある椅子に腰かけて、そっとナギサの手を握った。出会ったころよりもしわが刻まれて、小さくなってしまった手に胸がつまる。
「そんな顔をしないでよ。今すぐお別れってわけじゃないんだから」
ナギサの手がそっと僕の頬を撫でる。顔の輪郭をその手に刻みつけるように、もう片方の頬、唇、鼻、耳、おでこ。念入りに撫でると彼女は微笑んだ。
「うん。ちょっとしわは増えたけど、それも似合ってる。年季の入ったいい男になった」
「惚れ直したかな」
「ええ、ずっとあなたに恋をしているもの」
僕の目を少女のように見つめて、そっととじた。静かに椅子から腰を上げてナギサの肩に手を置く。小刻みに震える肩からナギサが必死に押し殺している、恐怖や不安や悲しみや怒りが伝わってきた。
込み上げてくるものを押さえ付けて、僕はこれまでしてきた中で一番やさしく口づけをした。ナギサを蝕む病魔が、僕の中にすべて移ればいいと切実に思った。そうしてくれる存在がいるのなら、なんにだって祈るし、なんだってくれてやるのに。
開け放した窓から、あまりにもおだやかな波の音が聞こてくる。
「いい音ね。完全に凪いでいるんじゃなくて、優しく動いている、生きている波の音」
「ああ、君の大好きな音だ」
ナギサは窓の向こうに広がる、夏のおだやかな夕陽に照らされた海を見つめた。その横顔は深く透きとおって、死を宣告されてもなお、眼差しには慈愛がこもっていた。
「ねえ、あなた。ひとつお願いがあるの」
「なんだい、ひとつと言わずに何個でも言ってくれ」
「ふふっ、大盤振る舞いね。だけどひとつでいいわ。私が死んでしまって、私の命日になったらこのくらいの時間、波が一番おだやかな夕暮れに、あなたのアコーディオンを聴かせてほしいの。ここから聴く潮騒とあなたのアコーディオン、私の一番大好きだった音楽を」
あまりにもささやかなナギサの願い。だがささやかだからこそ僕は、その願いを絶対に叶え続けることを誓った。