2018年07月29日 21時00分
微発酵探偵ミソーン 第七.五発酵
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どこかふてぶてしい面構えをした虎柄の猫が町を見回っている。
表通りからは見えない階段の裏、怪しいゴミ箱の影、置いてけぼりにされた段ボール箱の中。虎柄の彼、通称とらさんは怯えた猫がいそうなそんなところを毎日くまなく見て回っていた。
『大丈夫、あなたはもうひとりじゃないわ』
昔、とらさんをあたたかくつつみこみ、そう言ってくれた人がいた。なにもかもを信じられなくなって、すがった過去にも見放された彼に、いのちのぬくもりと生きる希望を与えてくれた言葉。
とらさんはかつてひとりぼっちでいた自分が救われたように、今ひとりぼっちでいるものの手をとって言ってやりたかった。
「大丈夫、お前はもうひとりじゃないぞ」と。
それがあの人への恩に報いることになるのだと、彼は信じていた。
とらさんは今日も1日の見回りを終えて、帰路についていた。いつもなら真っ直ぐに家に帰るところを、その日は夕陽があまりにもきれいだったから彼は浜辺から夕陽を拝んで帰ることにした。
ごつごつとした岩が並ぶ浜辺には人影も猫影もなく、波が揺れる音が響いていた。とらさんは各時間帯の夕陽が一番きれいに見える岩を熟知しており、浜辺の奥の方にあるじゃがいものような岩にひらりと飛び乗った。すると岩影から、ひっくひっくと押し殺したような嗚咽が聞こえてきた。
覗いてみると、岩の影に隠れるように小さな女の子がひとり、膝を抱えて泣いていた。誰にも見つからないようにひっそりと、静かに泣いていた。
とらさんは誰彼構わず愛想を振り撒くような軽い猫ではないが、その少女を放っておけないと思った。彼はかつて自分もそうだったせいか、ひとりぼっちでいるものを嗅ぎわける嗅覚に優れている。そんな彼の嗅覚が、この子はひとりぼっちだと告げいていた。
ひとりぼっちは泣きたくなるくらいさみしくて、暗いトンネルを歩いているみたいに不安で、それでも誰もそばにいてくれなくて、こころが深い絶望に閉ざされてしまう。そのことをよく知っていたから、とらさんはひとりぼっちでいるものを放っておけない。
とらさんは少女を驚かさないようにそっと岩から飛び降りた。手で顔を抑えて嗚咽する少女がとらさんに気づく様子はない。さくさくと砂を踏みながら近づくと、控え目な声でにゃあと鳴いた。
少女はビクッとしたものの、とらさんを見ると涙に濡れた目を少しだけゆるめた。
「ねこさん、ごめんね。ここはあなたの場所だったのかな」
なんとなく人間の言うことがわかるとらさんはそんなことないと一声鳴くと、少女に寄り添うようにすこしだけからだをこすりつけて座った。
「あったかい」
とらさんの背中をやさしく撫でながら呟くと、少女はまた涙を流した。とらさんは水平線に溶けていく夕陽を見つめながら、もうすこし少女に身を寄せた。女性が泣いているところをまじまじと見るのは失礼だと、彼は心得ていた。
「だっこしてもいい?」
自慢の毛並みを涙で濡らされるのは嫌だったが、とらさんは覚悟を決めてにあと答えた。おそるおそる手を伸ばす少女に、だらりと身を任せる。
少女の膝の上は思っていたよりもやわらかくてあたたかくて、悪くなかった。それにこの背中を撫でる手は、あの人の手にすこしだけ似ている。においはまだちょっとあまったるいが、嫌いではない。
ゆっくりと背中を撫でられながら、潮騒の音を楽しむ。夏の長い夕陽が海に溶け込んで水面をきらきらと輝かせた。
「ねえ、ねこさん」
少女の声にとらさんは短く鳴いて答えた。
「私のお家ね、ママが家を出ていっちゃって、今は新しいママがいるの。あと新しいママの子どものさっちゃん。あっ、パパはパパのままだけど」
とらさんはお店に来る人間をよく見て話も盗み聞きしていたので、なんとなく想像がついた。
「新しいママはお勉強しなさいってよく言ってね、私にもさっちゃんにもお受験させようとしているの」
お受験とは無縁のとらさんには想像もつかなかったが、血眼になってお店で勉強をしていた人間がいたことを思い出し、きっと大変なことなのだろうなと思った。
「お勉強は楽しいし、好きだよ。だけどさっちゃんはテストの点数があんまりよくなくて、お勉強が苦手みたいなの。新しいママはさっちゃんをよく怒るの。どうしてこの子よりも点数が低いの、って」
この子とはおそらく少女のことだろう。
「そうするとお部屋でふたりになるとさっちゃんは怒って、私をぶってくるの。お前のせいでママに怒られるんだ、って」
思い出しているのか、少女は鼻をぐずぐずと鳴らした。
「新しいママに言っても『それはあんたの態度が悪いからでしょう。勉強できるのを鼻にかけて』って聞いてくれなくて。パパに言っても、がまんしなさいって言うだけでなにもしてくれなくて。これって私が悪い子だからかなあ。だからこんなに怒られて、ママにも置いていかれたのかなあ」
少女はまた手で顔を隠して、押し殺したような声で泣き出した。手の平からこぼれ落ちた熱いしずくが、とらさんの背中を濡らす。
きっと家でもこんな風に窮屈そうに泣いているのだろうと思うと、とらさんの胸に強い怒りが燃えてきた。こんなちいさな子どもにそんな思いを抱かせる大人なんて、最低だ。
義憤に駈られるとらさんだったが、そこは悲しいかな猫の身の上。できることはごく限られている。
とりあえず少女を泣き止ませたくて涙をぺろりと舐めとると、少女は驚いたような顔をして、とらさんを思いっきり抱きしめるとわんわんと大声で泣いた。並みの猫なら悲鳴をあげて逃げ出してしまうほど苦しいところを、とらさんはただ眉間にシワを寄せるだけで声ひとつあげずにじっと耐える。
声を出して思いきり泣けばすっきりすることをとらさんは知っていた。だから少女が泣き止むまで、とらさんはやせ我慢で耐え抜く覚悟だった。
そんなひとりと一匹を夕陽がやわらかく包み込んでいた。
これがとらさんと少女、ソイとの出会いだった。