2018年07月25日 21時00分
微発酵探偵ミソーン 第五.五発酵
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僕とナギサの出会いは偶然だった。
若き日の僕はアコーディオンの奏者として売れるべく死に物狂いに練習を重ね、喫茶店や酒場を渡り歩いて演奏し、稼いだ小銭で糊口を凌いでいた。住む家もなく大変だったけれど充実した日々だった。
だけどあることがきっかけで、僕の奏者としての自信は粉々に打ち砕かれた。
しとしとと雨が降る町をさ迷い、気がつくと僕は岬の先端に立っていた。荒れる海にこの身を投げ出せば、楽になるのだろうか。雨は激しさを増し雷が鳴り響いていた。
なにかに誘われるように一歩ずつゆっくりと足を進めていると、背後からなにか聞こえたような気がした。人の声のような気もしたが、おそらく気のせいだろう。こんな雷雨のなか人がいるわけがあるまい。
さらに足を進めると、急に強い力で腕を引っ張られた。
「ダメ、早まらないで!」
驚いて振り返ると、雷雨にも負けない激しさを目に宿した女の子がいた。愚かな選択をしようとしていた僕への怒りに燃えるその目に、僕のすべてが吸い込まれていった。
これまで生きてきた自分を信じられなくなるような失望も、底のない沼のように僕を引きずり込んでいた絶望も、すべて。
それがナギサとの出会いだった。
ナギサも僕と同じく身寄りがなかった。彼女の両親が彼女に残したものは幾ばくかのお金と、岬に建つ喫茶店だった。
「父さんみたいに上手くは淹れられないけど」
そう言いながら彼女が淹れてくれたコーヒーはなによりもあたたかく、僕の身もこころも癒してくれた。
「いや、すごく美味しいよ。これまで飲んだどのコーヒーよりも、身に染みる」
「あれだけ雨に打たれていたらねえ」
苦笑いするナギサに僕は縮こまるしかなかった。
「よかったらわけを聞かせてくれる」
ナギサの労るような声に、僕は洗いざらいの事情を話した。すべてを話終えると、ナギサは深く息をついた。
「そう、そんなことが…」
呟くとナギサは深く考え込むように腕を組み、やがて腕をほどいてこう言った。
「ねえ、ひとつ演奏してみてくれない」
僕は耳を疑った。あの話を聞いてそんなことを言える人がいるだなんて、信じられなかった。
「悪いけどもう演奏する気にはなれないよ」
「だけどわたしはあなたの命の恩人よ。ひとつくらい頼みを聞いてくれてもいいんじゃないかな」
微笑みながら僕を見つめるナギサは、聖女のようにも悪魔のようにも見えた。しぶしぶ承諾すると、ナギサは嬉しそうにアコーディオンのケースを持ってきた。
あれだけ激しい雨の中を歩き回ったはずなのに、使い古してぼろぼろになったケースに入れたアコーディオンは不思議と濡れていなかった。
「あなたあんなにふらふらになって歩いていたのに、ケースは丁寧にシートでくるんで引きずらないように持ち歩いていたのよ。大切な宝物を守るみたいに」
優しく包み込むような声でナギサが教えてくれた。とめどもない思いが胸に溢れて、涙がこぼれそうになる。
ぐっと留めて、胸に溢れる思いのすべてを演奏に乗せた。
魂を引き絞るような演奏を終えると、ナギサは大きな拍手をしてくれた。
「羽毛みたいにふんわりやさしくて、だけど夏の夕暮れみたいにせつない。わたし、あなたの弾くアコーディオンが大好きよ」
満面の笑みでナギサがそう言ってくれたから、僕はアコーディオンを嫌いにならないで済んだ。