みそ(うすしお)の日記

2024年03月24日 19時53分

催花雨 前編

中学生の頃に無理を言って買ってもらったベッドに、みそじを目前にした私が寝転んでいる。そして見慣れた天井をぼんやりと見上げながら、屋根を叩く雨の音を聞いている。
トントンポタポタとリズミカルな雨は、久しぶりに実家に帰ってきた昨日から降り続いている。冬から春に移ろうとするこの時期でも、日本海に面した我が地元は天気の優れない日が多い。
だいたいどんより曇り、月の半分以上は雨か雪が降っている。晴れ間はなによりも貴重で、隣近所が一斉に洗濯物や布団を干したりする。
海沿いから少し内陸に入った、絵に描いたような地方の田舎町。目立った特産品も観光名所もなく、若い世代は競い合うように都会へと流れていく。
光回線が通じるはるか前から、隣近所のウワサ話が光速で飛び回る地域だ。監視されてるようで息苦しくてならない。
田舎にあるのは温かな人情なんかではなく、他人の不幸や凋落を面白がって肴にする野次馬精神だ。うわさ話ほど楽しいものはないけど、自分も肴にされると思うとたまったものではない。
そんな土地だとわかっていても、弱って困って、どうしようもなくなって、逃げてこられる場所があることには感謝すべきなのだろう。先々への不安はあれど、とりあえず休める。
「はぁ…」
でもため息は出てしまう。
昨日家に着いたとき、母さんの車から降りる私を、軒先に出ていた田中のおばちゃんに見られてしまった。隣に住む田中のおばちゃんは、私が子どものころからウワサの広報塔として有名だ。
家に入る前にちらりと見ると、こっちを見ながら母さんとひそひそ話していた。
きっともう、3月の終わりごろという時期外れに帰省してきた私に関するウワサは近所に広まっている。あることないこと、冷たい雨の中を尾びれ背びれをつけて元気に泳ぎ回っている。
吉崎さんちのカナちゃん、こんな時期に帰ってきたのよ。ええそう、大きな荷物持ってね。どんよりしてた顔してたわあ、目の下にも濃いクマができてたし。なんかあったのかしら。恋人に裏切られたとか。ねえ、それか職場かねえ。ほら、最近パワハラとかよく言うじゃない、そういうの。
たぶんこんな感じで、会うひと会うひとに憶測を話して。その話を聞いたひともまたそれぞれ会うひと会うひとに、自分が面白いと思ったことを拡大した憶測を話して広がっていく。結果、伝言ゲームみたいに最初とはまるで違う、デタラメなウワサが生まれる。
疲れ切っていた私はひっそり休みたかったのに、そんなふうになってると思うと安全圏にいるはずなのに、心が休まらない。降りやまない雨が、まるでひそひそとウワサする声のように聞こえてきて、心がざわつく。
私に断片的に聞こえるくらいの音量でひそひそと、ウワサするあいつらの声に聞こえて吐き気がする。会社の給湯室、更衣室、トイレ。そういう場所に近づくだけで、もうだめだった。負けるようで嫌だったけど、悲鳴をあげる心が身体にも影響して耐えきれず、逃げてしまった。
遠く離れたここにそんな悪意のある声はないとわかっていても、心か身体か、あるいはその両方がまだ引きずっているのか、ウワサされていると思うと、あの苦しみがよみがえってくる。
どこにも出かけず引きこもろう。久しぶりに帰ってきた地元で、会いたい友だちや行きたい場所もあったけど、とりあえず近所の注目が収まるまで大人しくしていよう。
「花菜ー!暇ならハナの散歩行ってきてー!」
近所への迷惑と、都会で傷つき引きこもる覚悟を決めた娘の心情に配慮しない、バカでかい声が階下から聞こえてくる。母さんのこの声、懐かしいな。思春期のころは友だちが来てるときにもこうやって呼ばれるのがなんか恥ずかしくて嫌で嫌で、文句言ったこともあったっけ。
「雨じゃん!ハナも行きたくないでしょー!」
こっちも負けじと大きな声でこたえる。久しぶりに出す大声は、胸がどきどきしてちょっと気持ちがいい。
「こんなん降ってるうちに入らん!ほら、ハナ散歩って聞いて待ってるよ!」
ハナの散歩好きめ。どうしてこう、犬ってこんなにひとの言葉に敏感なんだろう。
「ああもう…」
わしわしと頭をかいて、ベッドから起き上がる。ぼさぼさの髪をして、よれよれのスウェットを着た冴えない女が姿見に映り、こんな姿で外出したらまた新しいウワサが増えちゃうなとため息をついた。