みそ(塩漬け)の日記

2023年06月24日 21時01分

南雲正一の恋模様

暑い日は外を歩くだけで汗をかく。
南雲正一にとってそれは当たり前のことだった。太陽が東から昇って西に沈むように、普遍の事実として認識していた。
多少の個人差はあれど、人とはそういうものだと思っていた。それが自然な反応だと認識していた。だって暑いんだもの。
それがいったい、どうしたことだろう。
「映画、面白かったね」
正一のとなりを歩く川島杏奈はいつもと変わらない微笑みを浮かべている。炎天下の街中にも関わらず、エアコンの効いた講義室で正一の誘いを受けたときと同じ微笑みを。
「う、うん、そうだね」
さり気なく額に浮いた汗を手でぬぐいながら、正一はさっきまで観ていた映画の内容を思い出そうとした。

薄暗く、少し寒いくらいにエアコンの効いた映画館。上映されたのは話題になっているハリウッドの純愛映画で、これで泣けないやつは人間じゃないとSNSで言われていた作品。
でもそれを観ても正一には涙なんてまったく浮かんでこなかった。1ミリたりとも。むしろまぶたは乾いた砂漠よりもカラカラで、目は血走っていた。
そんな顔をしていたのはあの劇場内で正一だけだった。老若男女、みながみな一様に涙で顔を濡らしていた。もしも突然スクリーンに、そのときの正一の顔が映し出されていたら観客総立ちでバッシングされていたことだろう。
だからと言って正一を人非人扱いするのはちょっと待っていただきたい。彼には彼なりの、映画に集中できない切実な理由があったのだ。
それを説明するにはまず正一の女性遍歴から語る必要がある。と言っても特別なにかあるわけではない。むしろ砂漠の大地みたいに茫漠としている。
つまりありていに言ってしまえば彼は童貞で、これまでに女性と付き合ったこともない。会話を交わしたことも両手で数えるほどしかない。もっとも一言二言で終わったそれを、会話とカウントするのかは意見が分かれるところだと思うが。
正一はそもそもが人見知りで引っ込み思案な性格で、たとえ男どうしであろうとも打ち解けた相手としかにこやかに会話ができない。
さらに上と下に挟まれた男三兄弟という聞くだけでもむさ苦しさを覚える家庭に育ち、彼にとって最も身近な女性であった母親はジャイアンの母ちゃんを彷彿とさせる肝っ玉母ちゃん。ちなみに父ちゃんは糸こんにゃくのようになよなよしている。
そんな家庭に育った正一にとって女性とは神秘そのものであった。何を食べているのか。何を話しているのか。何をして遊ぶのか。何もかもが神秘のヴェールに包まれている、妖精みたいなものだった。白くて可憐でいいにおいのする彼女らが自分と同じ生き物とはとうてい思えなかった。
だから何を話しかけられても上がってしまい言葉にならず、意味をもたないけどなんとなく物悲しい響きのする鳴き声でしか答えられなかった。あまりにも強く女性を意識しすぎた結果、にっちもさっちもいかなくなった悲哀の鳴き声だ。

彼の小中高は概ねそのような感じで、女性との接点はゼロだと言い切れる。
しかしこれではいかんと環境のガラッと変わる大学生活にかけて、恋愛ハウツー本やYou Tubeで得た知識を総動員した結果たどり着いたのが、この映画デートだった。
なるべく気の強くない、誘いやすそうな子を選んで、気の遠くなるような脳内シュミレーションを重ねての映画デート
ポップコーンのバケツを挟んで座って、つまむときに手とか触れあっちゃったりしてとか、そんなちょっとよこしまな妄想もしてニヤニヤしてきた正一。
でも杏奈はそんな中学生みたいな妄想よりも遥かに上手だった。
シュミレーション通りに座席の間に置こうとしたポップコーンを正一の膝の上に乗せて、こうしとけば手を繋ぎながら観られるでしょ、といたずらっぽく微笑む彼女
顔を赤くして動揺する正一は気の利いた答えも返せず、あの悲哀の鳴き声によく似たもので返事することしかできなかった。
薄闇からそっと迫る杏奈の手の気配に正一の手から汗がにじんだ。ヘビににらまれたカエルとかも、きっとこんなふうに汁を出すことだろう。
そんな命の危機なんて場面ではないが、正一にとってそれは恋愛の危機だった。だってこんな冷房の効いた映画館の中で、手に汗をかくような男は不潔だと嫌われてしまうから。
デートをするような間柄で手汗なんてそんなに気にするようなことでもないと思うが、正一的にはエマージェンシーだ。
もしも今、手汗の滲んだ手を握られて、うわキモっとか言われて手を払われたら、一生もののトラウマになる自信がある。避けなければ。それだけはなんとしても避けなければ。
焦るもののそこは上映間近の映画館。しかも休日で封切りされたばかりの話題の映画とあって、左右の席は順調に埋まりつつある。よく見えるんじゃないかなと、ど真ん中の席を選んだ自分を叱りつけたい。
これではちょっとトイレとさり気なく抜け出すこともしづらい。正一は小心者だから、すいませんすいませんと頭を下げて狭い座席の間を通り抜けるのは嫌だった。
ならばどうするか。いっそ迫る手をこちらから振り払い、そんな軽い男じゃないんだとうそぶくか。いや、それでは気取った面倒くさい男だと思われてしまう。ただの童貞なのに。
というか手は繋ぎたい。憧れてたシチュエーションだもの。映画館で手を繋ぎながら見るって、親密な感じがするし。女の子の手に触れたことなんてないから、その感触を味わいたいし。
柔らかいのか意外と硬いのか。すべすべなのかそれともしっとりしてるのか。冷たいのか暖かいのか。
それを究明できる一世一代のチャンスだ。とことん触って確かめ、皮膚と神経にその感触を刻み込んでおきたい。
そのためにはこの手汗をどうにかしなくてはならない。さり気なく拭うことはできないか。
わずかな時間に脳を酷使して考えに考え、正一がひねり出した答えはこれだった。
「な、なんかお腹空いてきちゃったなあ」
わざとらしく声に出して、迫るその手から逃げるようにポップコーンを鷲掴みにして食べる。すると手に油がつく。その手をポップコーンと一緒に渡された手拭きで拭けばいい。
しかしこの上なく完ぺきに思えたそのアイデアは、杏奈の軽いひとことで予期せぬ展開になってしまう。
「あっ、いいなあ。わたしも食べる」
そう言ってあーんと口を開けて、正一の方を向いてくる。
一瞬にして固まる正一。うぶで照れ屋で奥手な彼にとって、いきなりのそのあーんは気を動転させるにはじゅうぶんだった。
何個だ、何個口に入れればいいんだ。まさか自分で食べるみたいにガシッと鷲掴みにして、口の中に入れるわけにはいくまい。ひと粒でいいのか。いやひと粒って、こいつ自分ではわしわし食うくせに、人にあげるときにはひと粒だけなのかよ、ってケチ臭く思われやしないか。
いやでも女の子だぞ。こんな小さなお口にそんなに入るわけが。いやいや待て待て、お口とか入る入らないとか、なんかいやらしい。邪念だ、邪念を捨てるんだ。そうすれば、自ずと答えは見えてくる。
「あ、あーん…」
小声で顔を真っ赤にした正一は、けっきょく杏奈の口にふた粒のポップコーンを差し出した。指先の上に乗せて、決してくちびるとかに触れないように注意深く。
すると杏奈は余裕たっぷりに笑い、震える彼の指ごと口にくわえた。