2023年05月28日 21時23分
そんなもんだよ
男女の行為の最中に、違う人の名前を呼んでしまって、気まずい思いをする。
話にはよく聞くけど、まさかそんなことされるわけないし、自分がそんなヘマをするなんて思ってもいなかった。遠い国で起こった災害みたいに、気の毒だなあと同情しつつ、自分には縁のないできごとだと思っていた。
そしてそれが、こんなにも双方の動揺を誘うものだなんて想像もしていなかった。
「ごごご、ごめん!違うの!そうじゃないの!」
「大丈夫!大丈夫だから!」
何が大丈夫なのか僕にもよくわからないけど、泣きそうな顔をする彼女になにか答えなきゃと思って出たのが、大丈夫という間抜けな言葉だった。
もちろん僕の元気になっていたそれは大丈夫ではなく、全ラウンドを戦い終えて負けたボクサーみたいにぐったりしていた。粘つくゴムからずるりと出してやると、なんだかより敗北感に包まれて惨めに見えた。
とりあえず交互にシャワーを浴びて服を身に着けて、テーブルを挟んで向き合った。いつもならどちらかの側にふたりが座り、狭いじゃんと言いながらいちゃつくのだけど、そんな空気ではない。
別れるときの空気ってこんな感じなのかもな、となぜか他人事のように思う。
「あ、あのさ…」
「うん」
「本当にごめんなさい。名前間違えるなんて、最低だよね」
テーブルに頭がつくんじゃないかってくらい下げられる。
「でもあの、浮気相手とかじゃないからね!元カレの名前が、とっさに出ちゃって…」
「あー、うん。あるよね、そういうことって」
わかったふりをしつつ、本当にそうなのかと疑問に思う。元カレと言うけど、その名前から彼女のスマホに連絡がきているのを見たことがあった。
わざわざ盗み見したとかじゃなくて、彼女が席を外しているときにスマホが震えて偶然目にしてしまった。
そのときは誰だかわかっていなかったし、わざわざ追求するのもうつわが狭い男だと思われそうで嫌だったし、盗み見したと思われるのも関係にヒビが入りそうで見なかったことにした。
「そっ、そうそう!あるよね!」
ほっとしたように笑い、いつものように彼女が隣に移って腕を絡めてくる。甘えた声を出してくっついてくるのに応えていると、彼女のスマホが震えた。
彼女は猫がおもちゃに飽きたみたいにあっさり僕から離れて、スマホをいじりだした。僕からの連絡ではきっとそうならないであろう、幸福そうな微笑みを浮かべながら。
僕はテレビをつけて、興味もない深夜番組に目を向ける。そんな顔をした彼女を見ていることなんて、できやしない。
誰からの連絡なのか問いただすべきだと思いつつ、僕は意識を無理やりテレビに集中させる。もしも問いただして、僕が誰かの代用品だって明かにされたらと思うと、そんなパンドラの箱は開けられなかった。
ズルいのは僕なのか、それとも彼女の方なのか。
テレビからはわざとらしい笑い声が響いて、僕もそれに合わせて乾いた笑い声をあげた。
耳にはもう、波が引いていくような終わりの音が聴こえてきているのに、恋だか愛だかに固執する頑なな心は、それを認めたがらなかった。