みそ(業務用)の日記

2023年03月26日 22時24分

すきま

「ちょっと距離を置こう」
そう言い出したのは彼の方だった。
付き合って3年。私は29歳で彼は26歳。彼がどう考えているのかはわからないけど、私の方は結婚を意識していた。
これまでそういった話をしてきたことはあまりなかった。結婚雑誌を置いておくという姑息なアピールをしたこともない。
重い女と思われるのはかっこ悪いし嫌だった。
でもそれとなく水を向けるようなことは言ってみたりしていた。それに対する彼の反応は鈍く、他の話題に変えられることが多かった。
たぶん、私の本心に気がついていたからそうされた。
だからもう、重いと思われようがストレートにぶつけるしかないかと決意を固めた矢先のこの提案。
この人じゃなきゃ嫌だ、というほど運命的なものを感じる相手ではない。でも3年間という年月はそれなりの思い出が積み重なり、身体だって重ねていれば特別な情も芽生えてくる。
それは愛と呼べるものなのではと思い、そう思うと彼に会いたくてたまらなくなった。小さな思い出やぬくもりの積み重ねが、恋しさを生み出していた。
彼の部屋の合鍵を使ったのはそれが最初で最後になった。
連絡も入れずに部屋の前に立ち、びっくりさせてやろうと鍵をそっと解除して、音が立たないように扉を開けた。狭い玄関には見覚えのある彼の靴と、見覚えのない女物の靴。
勢いよく開けた寝室のドアの向こうでは、彼の上に髪の短い女が乗っていた。女はすぐさまきゃあと型通りの悲鳴を上げてベッドに潜り込み、彼は幽霊でも見たような顔で私を見た。
「な、なんで急に来るんだよ」
私は手に持っていた鍵をフローリングに叩きつけ、マンションを後にした。

置いた距離のすきまに入り込んだのは、私の場合は彼に対する愛情や恋しさで、彼の場合は新しい女だった。いや、私が知らなかっただけで、もっと前からの関係だったのかもしれない。
薄明かりの下でもわかるくらいに、張りとつやのある女の身体を思い出す。たぶんまだ、20代前半くらいの若い身体が私の目に焼きついていた。
私が努力で保とうとしているものを、何もせずともほしいままにしている身体。若さも、彼の愛情もすべて。
裏切られた怒りはあまり湧いてこず、それはそうだろうなと冷静に納得してしまう自分が悲しい。あんな女!と張り合う気力が出てこない。
きっと自信のなさがそうさせる。異性から容姿を褒められたことがないし、かと言って愛嬌があるわけでもないし、仕事も特別な技術を必要としない、代わりなんていくらでもいるもの。
私じゃなきゃならないことなんて、何もない。ゆいいつそうだと信じていた恋人という関係すら、私である必要はなかった。
私はいったい、どこにいればいいのだろう。どこにいていいのか、わからない。
ただ、誰かに会いたいと強く思う。自分の中にあるぐちゃぐちゃした感情を受け止めてほしい。こういうときこれまでどうしていただろうと考えて、彼に聞いてもらっていたのだと思い当たり、泣きたいような叫びたいような気持ちになった。
彼以外には誰がいる、家族か、友だちか。会社の同僚にはそこまでの話をできる人なんていない。
でも父母は孫の顔を望むばかりで顔を合わせる気になれない。いつもは聞き流せるまとはずれなお説教やお節介をいま言われたら、たぶん爆発してしまう。
だったらと友だちの顔も何人か浮かんだが、今すぐに会える子はたぶんいない。それにもう大半が結婚してて、会えたところで羨望と嫉妬に悶えるはめになるのは目に見えてる。結婚してない子もいるけど、それはそれで仕事に追われてて、久しぶりに会ってそんなグチを聞いてもらうのも情けない。
マンションに帰るしかないのか。
でも今は、彼の物が置いてあり、それなりの思い出もある部屋には帰りたくなかった。彼のことを思い出して、心が散り散りになってしまう予感がする。
このままふらふらと街をさまよい続ける。それもいいかもしれない。歩くのによさそうな薄曇りだし、ほら、ちょうど赤信号だし。
ぐいっと腕を引かれ、目と鼻の先をビュンと大型トラックが通り過ぎていった。
「あっ…」
腕を引っ張ってもらえなかったら、私は今ごろぐちゃぐちゃになっていたことだろう。背筋に冷たいものが流れて、足から力が抜けそうになる。
「わんっ!」
力強い鳴き声が聞こえて踏みとどまり、振り向くと中学生くらいの少年と柴っぽい犬がいた。少年の右手は私の腕を掴み、左手は犬のリードを握っている。
「大丈夫ですか?」
心底から心配するような声と目に、私の目からつうっとあたたかいものが流れ落ちていた。

「こんなところに神社なんてあったんだ」
「地元の人しか来ない、小さい神社です」
苦笑いで答える少年の顔は少し大人びて見えた。
彼の家と私の家の間にある住宅街。その隙間を縫うような道の先に、少年の家だという古びた神社はあった。
彼は突然泣き出してひとりになりたくないと言った私を心配して、落ち着ける場所に案内してくれた。子どもにすがるとは情けないと思いつつ、素直に甘えてしまった。
小さく古びてはいるけどよく手入れされている。境内は掃き清められていて、鳥居も社も大切にされてきた古いものの持つツヤがある。
初めて来るのに、なぜか前にも来たことがあるような気持ちになる。神社って不思議な場所だ。
手水場の向かいにあるベンチに座って、私はぼんやり辺りを見回し、足元にふせっている犬、ハナをときおり撫でた。
飲み物を取ってくると言って社務所に入った少年はまだ戻ってこない。ハナは人懐こいようで、見知らぬ私とふたりきりでもリラックスしている。
ときおり私を見上げては催促するように手に鼻を押しつけてくる。背中をなでてやるとぺたんとふせり、満足そうにしっぽを振る。
会話を交わせるわけじゃないけどそれだけで何かが通じあえてるような気持ちになる。人間ともこんなふうにわかりあえればいいのに。
言葉なんて余計なものがあるから複雑になる。恋とか愛とかもっとシンプルでいいのに。でもシンプルに考えたから、彼は若い女を抱いたのでは。
じゃあやっぱりシンプルでもだめだ。頭でも身体でもなく、その中間みたいなところってないものか。
「すいません、お待たせしちゃって」
迷惑をかけているのは私の方なのに、申し訳なさそうに少年が戻ってきたのがちょっとおかしい。その手には湯気を立てるマグカップがふたつ。
さっきまで私とハナと繋いでいた手が、今度はマグカップを持っている。この子の手はいろんなものを掴める。
「ありがとう」
受け取ると少年は小さく笑い、ベンチの空いているところをちらりと見た。手で促すと軽く頭を下げて座った。できるだけ距離を取っているのが初々しくて微笑ましい。
ハナは少年が座るのに合わせて、私と少年の間に空いたすきまを埋めるように、こちらにおしりを向けて座り直した。少年と顔を見合わせて笑ってしまう。
私と彼の間に空いていたすきまにも、こんなふうに埋めてくれるものがあればよかったのかなとふと思った。