みそ(業務用)の日記

2023年03月12日 21時21分

ひとり

例えば教室でひとりでいるのと、今みたいに駅のホームでひとりでいるのとでは訳が違う。教室のひとりは居心地が悪くて惨めな気持ちになるけど、駅の雑踏でのひとりはそんなことを感じない。
教室ではグループを作って、誰かしらと一緒にいるのが普通という不文律があるせいだ。それに僕が僕と認識されているのも大きい気がする。その他ひとり、じゃなくて、柴田良樹というひとりの人間として認識されているせいで居心地が悪くなる。
駅のホームは所属する組織も年齢もばらばらで、ひとは多いけどなんのまとまりもない。僕は僕として認知されず、雑踏を形作るひとりに過ぎない。
教室でもそんなふうに扱ってくれればいいのに。自分の存在を透明にできる道具や手段があればいいのにと強く思う。
姿を消すマントとか、気配を殺す忍術的なやつとか。
でもそんなものは漫画やアニメの世界にしかない。リアルとフィクションの区別はちゃんとつく。サンタの正体だってとっくの昔に知っている。
信じていたかった幻想は歳を重ねるごとにどんどん死に絶えていき、キラキラとした輝きを失っていく。その一方で現実は重さを増して、残酷なまでに自分の限界を突きつけてくる。
小さい頃には僕にだって夢があった。変身ヒーローとか、宇宙飛行士とか、スポーツ選手とか。努力すればだいたい何にでもなれるって思ってたし、何でもできると思ってた。
でもそうでもなかった。

最初の挫折は小学生のころ。鉄棒の逆上がり。くるっと回ってすたっと降りるだけ。できる子はなんということもなくこなすのに、僕は逆手で鉄棒を握ってくるっと回る感覚が掴めず、最後までできなかった。
先生や友だちが手取り足取り教えて、励ましてくれたのに、それでもできなくて、僕は悔しくて泣いた。
次は中学受験。中高一貫の進学校を受けた。そこに受かることができれば大学受験も安泰と評判の私立中学。もちろん倍率は高く、受かるのは一部の天才秀才だけ。
いやいや塾に通わされ、勉強もさほど好きではなかった僕には荷が重すぎた。天才でも秀才でもないくせに、努力を嫌う僕の成績なんてすぐに底が知れた。
塾はAからCまでの三段階でクラス分けされていて、ひと月ごとに行われるテストで入れ替わる。僕は塾に入った当初はBクラスで、次の月からはCクラスに落ちた。
父さんは気楽な調子で励ましてくれたけど、受験に力を注いでいた母さんはこれを大いに嘆いた。
「どうしてなの、良樹。隣の蓮君はずっとAクラスなのに、どうしてあなたは」
蓮は幼なじみで、小さいころからずっと一緒に遊んでいた。家も隣同士、同じ歳の子供もいるということで家族ぐるみの付き合いをしていた。
蓮は僕とは違い、小さいころからできるやつだった。出来杉くんとのび太みたいな感じ。もちろん僕がのび太で、蓮が出来杉くん。
当然のようにあいつは私立に受かった。
「中高も一緒だと思ってたのに、残念だな」
幼稚園も小学校も同じだった。人気者の蓮の一番の友だちだったおかげで、そのころは僕にも友だちと呼べる子がいた。
「中学にいっても一緒に遊ぼうな!」
屈託のない笑みでそんなことを言う蓮と離れられると思うと、少しホッとした。寂しさよりも先にそう感じてしまったことに、僕は強い罪悪感を覚えた。
蓮はいいやつだ。隣のよしみだからって僕なんかと仲良くしてくれるほど。でもいいやつだから、一緒にいて自分の嫌いなところばかりが目につくようになってしまう。まるで太陽の下に影ができるように。
蓮にはできるけど僕にはできない。そんなことが年々増えていった。そしてそのたびに、自分と蓮を比較して黒い気持ちが胸に溜まっていった。たぶん劣等感というもの。
蓮と離れられればそんな泥みたいなものから解き放たれると思っていた。でも違った。

中学校に入ってからの蓮は部活に勉強に忙しいらしく、僕と遊ぶ暇なんて全然ないみたいだった。
それでも朝や夕方に近所で会うと、あいつは少しの陰りもない笑顔で声をかけてくれた。まるで変わらない友だちのように。
話すのはもちろん中学校生活の話。充実していると、話を聞いてるだけでよくわかった。
「良樹の方はどうなんだよ」
聞かれても話せることなんて何もなかった。部活はやる気のないコンピューター部だったし、友だちもいなかった。
同じ小学校から大多数が進学した公立中学で、僕はひとりだった。小学校のころに仲良くしていたやつらとは疎遠になった。
あいつらが仲良くしたかったのは蓮だけで、僕は含まれていなかった。あいつらにとっての僕は、カードのおまけのお菓子みたいなものだった。蓮というカードがなければ、なんの魅力もないもの。
だけれど充実した様子の蓮にありのままを話したくなくて、僕は嘘をついていた。つまらない見栄を張っていたんだ。
部活はバスケ部でレギュラー。小学校のころの友だちとは相変わらず仲良くて、毎日ばかみたいなことをしている。成績だって学年トップクラス。
全部真っ赤な嘘。蓮と対等な友だちでいるためには、そんな自分でなきゃならないって思っていた。おまけのお菓子じゃなくて、僕もカードでなきゃならいと。
「そっか、良樹がんばってんだな。おれもがんばんなきゃな」
真っ直ぐに向けられるあいつの笑顔が、何よりも僕の心をえぐった。

塗り固めてきた嘘が剥がれたのは中三のときだった。
「春日井から聞いたぞ。お前、ウソついてたんだな」
春日井というのは小学校のころの共通の友だち。そのときには僕と同じ中学校に通う他人。
「なんで話してくれなかったんだよ、ほんとのこと。おれがそんなこと気にするとか思ってたのかよ」
「ち、違う、そうじゃないんだ」
ただ僕は、蓮と対等でいたかった。たとえ嘘の上でも。それだけだった。
「良樹はおれのこと、信用してくれてなかったんだな。おれはお前のこと、ずっと一番の親友だって、思ってたのに」
悲しそうな顔で家に帰る蓮に、僕は何も言えなかった。何を言っても言い訳にしかならないし、蓮にはわかってもらえないと諦めていた。
正しいことを積み重ねて生きてきた蓮に、こんな惨めな理屈はわかってもらえないと。
でもいつかはわかってもらえる日がくると、僕は思っていた。何だかんだ言って物心ついたときから一緒だったんだ。その歳月がきっとこのわだかまりをとかしてくれると。
そんな日はずっとこない。なぜなら、蓮は死んでしまったのだから。

この駅のホームから、蓮は電車に飛び込んだ。通過する快速電車に跳ね飛ばされ、蓮はこの世を去った。
何があいつをそこまで追い詰めていたのかわからない。離れてしまった時間の隙間に、そんな黒くて大きなものが生まれ育っていたなんて、知る由もなかった。
たぶん僕が嘘を重ねていたのと反対に、あいつは言わないでいたことがあったのだろう。偽りを口にし続けてきた僕と、真実を閉ざし続けてきた蓮。
僕が嘘なんてつかずに、ありのままを話せていたら、蓮も心に巣食っていたものを言葉にしてくれたかもしれない。
ひとりきりの僕の眼の前を、電車が通過していく。轟音を立てて、風を巻き上げて、止まることなく走っていく。そんな後悔なんて無駄だと言うように。
あいつは線を超えて旅立った。でも僕は膝がすくんで動けなかった。あいつよりも多くのものを持たないくせに、死にたくない。
こんな僕を見て、蓮は笑うだろうか。