2023年03月04日 20時02分
五月の低い空 5
長屋に住まう個性的な面々の中にあって、我が家は普通の部類に入る家庭だった。
日がな一日縁側に座り続けて茶をすする置物のような老人。人が入れ替わり立ち代わり訪れ、常に中国語か韓国語らしき異国の言葉で賑やかな部屋。年中ハデな柄のシャツを着て昼間からブラブラしているヒッピー風の青年。住宅地には不釣り合いな際どいドレスを着て夜の街へと赴く、常にフェロモンを振り撒いていたお姉さん。外ではいつも誰かしらがタバコをくゆらせ、真っ昼間からワンカップを開けるごきげんな一群もいた。
今にして思えばこれほどまでに教育的によろしくない環境もないだろう。現在のPTAが見たら卒倒してしまうダメな大人たち。でも少年時代の僕にとってはそうそうたるオールスター。彼らを見ていると大人たちから怒られてばかりのダメな僕でも、まあなんとかなるんじゃないかと未来への希望らしきものすら見出せた。決して光輝くことなんかない、タバコの煙みたいにくすんだ色をしていたけど。
その時代にしてもあまり歓迎されない類のメンバーであったと思うが、まあいいかと容認しているような雰囲気があった。今と比べたらあらゆるものが発展途上で不便だった時代だ。携帯もネットもあまり普及しておらず、そこまで他人のことを気にしている余裕なんてなかった。大多数から、あるいは時代から押しつけられた善悪の物差しよりも、自分の中にある価値基準で物事を見ていた人が今より多かったように思える。
そうした世の中にあって幸か不幸か、母は現在に近い価値観を持ってしまっていた。道徳や正しさだけが絶対で、それにそぐわないものは悪だと断じる針の穴のように狭い価値観。そういったものも行き過ぎてしまえばある種の宗教だ。人を差別し、見下す傲慢さに繋がる。
金はないが世知に長けた長屋の人々はそういった視線に敏感で、母は有り体に言えば嫌われていた。挨拶をしても無視されるといったことはないが、母が長屋の面々と立ち話などをしているのを見たことはなかった。
長屋の隣には新築の四階建てのアパートがでんと建っており、本来ならば僕たち家族もそこに住めていたのだという。でも書類か何かの手違いのせいで、僕たちが住むはずだったはずの部屋には別の家族が住んでしまった。すでに住んでしまったものを犬猫のように追い出せはしないので部屋が空くのを待つか、来年の夏に新たなアパートが建つのを待つかしなければならなかった。
父の職場にも小中学校にも近く、さらに言えばスーパーや駅にも近い便利な立地から離れることは考えられなかった。新たなアパートは、新築アパートの目の前に建設中であった。これまた四階建てで、最終的には同じような形のアパートが五棟も建つことになり景観は随分と様変わりする。
まあそんなことなんてまだ未来の話だ。
むやみやたらと高層なアパートを羨む母は、そちらの住人たちとばかり付き合いを持ちたがった。僕と兄にもそのように迫った。
「長屋の子なんかと遊ばないで、アパートの子と遊びなさい」
僕と兄も長屋の子なのに、それはいったいどういうことだろう。口答えしそうになる僕を兄が止めた。外に出てなぜ止めたのか聞くと、兄は皮肉げに笑った。
「何言っても無駄だからさ。母さんの中には上下ができてんだ。アパートが上で長屋は下って」
「でも僕らが住んでるのは長屋だよ」
「今はな。でもそのうち俺らもあのアパートに引っ越すことになる。だからもう母さんの気持ちはあっちにいってるんだ」
「変なの」
ふたり揃って工事現場を見上げた。フェンス越しに鉄骨で組まれた足場や重機が見え、怒声とともに忙しなく動き回る筋骨隆々な男たちがアパートを築き上げていた。クレーンがうなりをあげ、大型トラックが出入りし、もうもうと砂煙が立ち込める。
工事現場の隣にある公園にもはや管理の手は行き届いておらず、草が伸びるままに放置され、遊具たちは錆付きを年々色濃くしていった。そこで遊ぶ子どもなんてもういなかった。長屋の子ですら遊ばない、忘れられた公園。
友だちの家に行くと言って自転車に跨がる兄を見送り、僕はひとりで公園に入った。草をかき分けながら進むと小さな虫たちがわさわさと飛び立っていく。さっちゃんと遊んでいた砂場には空き缶や読み捨てられた雑誌が埋まっていた。興味本位に湿った感触のする雑誌を取り上げて開いてみると、裸の女性が空虚な笑みを浮かべていて、僕は小さく悲鳴をあげて落としてしまった。そのページが開かれたまま砂に落ちたのに気づき、慌てて足で本を閉じた。
なぜか自分がひどい悪事を働いてしまったように思えて周囲を見回したが、工事現場の音と野良猫がいるばかりで人の姿はなかった。マラソンの後のようにやかましい心臓を押さえながら、僕はブランコに向かった。
元の水色から程遠い錆びついた色になったブランコを力いっぱい漕ぐも、軋む音ばかりが響くだけでなかなか勢いがつかない。ムキになって漕いでも応えてくれず、疲れるばかりでちっとも楽しくない。ブランコから下りて両手を見ると、赤茶けたサビが手を汚していた。鼻に近づけるとむわっと鉄の臭いがして、僕はなぜかさっき見たヌードを思い出した。
性的な欲求と言うよりも怖いもの見たさのような感じできょろきょろしながら砂場に近づくと、公園の外をベビーカーを押して散歩をする母親と目が合った。何も悪いことをしていたわけでもないのに、僕は見られた!という感覚を強く抱き、その場から走って逃げ出した。
その日の夜はなかなか眠りにつけなかった。