2023年02月27日 20時39分
五月の低い空 4
古き良き長屋というのは無法地帯だ。
例えばやたらめったらに近所の野良猫たちに餌を振る舞い、長屋周辺を彼らの縄張りみたいにしてしまったおばあさんがいる。通称猫バア。
古くから住む長屋の重鎮のひとりであり、一説には長屋が建設された当初より住まわっていると言われていた。表札を出していないので本名を知るものはおらず、誰もが猫バアと呼んでいた。猫には優しいが人には厳しい猫バアを、面と向かってそう呼ぶものは誰もいなかったが。
三棟が並ぶ長屋は北から一号棟、二号棟、三号棟となっており、それぞれが四部屋ずつで合わせて十二世帯が住まわっていた。記憶にある限り常に部屋は埋まっていた。おそらく壁の薄さと比例した破格の家賃だったのだろう。我が家は103号室、つまり一号棟の三部屋目。件の猫バアの部屋は104号室、我が家の隣だ。
長屋の裏には薄っぺらい木の板で組まれた縁側がついており、おまけ程度に雨よけの庇も出っ張っていた。もちろん縁側同士は繋がっておらず、それぞれの家がそれぞれの使い方をしていた。物置のようになっている家もあれば、綺麗に整えて将棋や囲碁を差すのに使っていた家もある。
猫バアの家では野良たちの餌やり場となっており、我が家では花好きの母が鉢植えを置いて季節ごとの花を愛でていた。
どういう類のトラブルが起こったかは想像に難くないだろう。
あれは確か、五月の連休も終わって梅雨の気配が漂ってきたころ。母の絹を裂くような悲鳴に縁側を覗き込むと、やっと蕾になったと喜んでいた鉢が無残にも地面に転がっていた。何か気取った名前の花だった気がするが、その名を呼びながら母は鉢から飛び出して無残に萎れた蕾を両手で抱え上げた。僕を抱っこするときとは違い、ずいぶんと丁重な扱いだったのをよく覚えている。
「ああー、猫の仕業かなあ」
同じように縁側を覗き込んでいた父が納得したようにのんきにうなずいた。そしてすぐに興味をなくし、解きかけの新聞のクロスワードに取り掛かった。我が家で最もマイペースなのは父だ。
気取った名前の花が咲くはずだった蕾を未練がましく鉢植えに戻した母は、荒い足音を立てて室内に入り、ちゃぶ台に広がった新聞を親の仇のようにばさりと取り上げた。
「あっ、横の欄まだ埋まってないのに」
「こんなもんどうでもいい」
「電子レンジが当たるかもしれないんだよ、欲しいって言ってたじゃない」
「どうせ当たんない!それよりどうにかしてよ!あのノラども鉢植えにイタズラするわ、糞尿をそこらに撒き散らすわで迷惑ったらありゃしない!」
介護現場とかで聞きそうな物言いだ。母が介護の仕事に就いていたら、おそらく三日も経たずに辞めていたことだろう。
母の剣幕に、隣の部屋でテレビゲームに熱中していた兄もなんだなんだと顔を出す。
「うーん、でも動物のすることだしなあ。猫に言っても聞く耳を持ってくれないだろう」
「誰が猫と話をしろって言ったのよ!お隣さんよ!」
お隣さん、つまり猫バアのことだ。
「ええ、ご老人にそんなこと言うのは気が引けるよ。それが楽しみなんだろうし」
「楽しみだろうがなんだろうが迷惑をかけられる方の身にもなってよ!あなただって前に車におしっこかけられたって嘆いてたじゃない!」
「あれはほら、まだ買ったばかりの頃だったから」
「そういう問題じゃないでしょ!実害が出てるのよ!実害が!」
「うーん」
そこまで溜まったうっぷんがあるのなら直接それを猫バアにぶつけるのがてっとり早そうなものだが、母は内弁慶だ。隣近所にはなるべくいい顔をしたい見栄っ張りでもある。
一方の父も他人に意見を言ったりするのが苦手で嫌いなたちだ。そのおかげで僕も兄も父から怒られたことは滅多にない。口うるさいのは母だけで十分というのが、僕たち兄弟の数少ない共通認識だ。鬼の母と仏の父でバランスが取れていた、と言えるかもしれない。
それにしても母にサンドバッグにされる父を見ているというのはすごく嫌な気分がしたものだ。どう考えても悪いのは父ではないのに、なぜ母はこんなにも責めるような口調で迫るのか。こういうときに僕はいつも泣き出したいような気持ちになっていた。
ヒートアップする母と額に脂汗を浮かべてなだめる父を呆れ半分、面白半分といった様子で見ながら、兄がおろおろする僕に顔を寄せてきた。
「まーた始まったな」
「たっちゃん止めないの?」
内気で引っ込み思案で、おまけに言葉足らずな僕に夫婦喧嘩というか母のヒステリーを止める手立てなんてなく、期待を込めた目で兄を見た。大人好きのする言葉を扱うのが上手い兄なら、簡単に止めてくれるのではと思ったのだ。
「いいか義彦、台風が来たって過ぎ去るのを待つしかないだろ。それにもうすぐもっとデカい台風が来て止まるさ」
「台風?」
首を傾げる僕に、兄は黙って見てろと言うようにニヤリと笑った。半信半疑に台風を見守っていると、縁側の向こうに小柄な人間が仁王立ちしているのが見えた。
猫バアだ。
いつも着ている繕いの目立つもんぺにはんてんを着込み、その手にはなぜか出刃包丁と猫缶が握られている。
「さっきからやかましいね!全部こっちまで聞こえてるよ!」
動乱の時代を生き抜いたヤマンバの一括に、父はおろか台風と化していた母ですら硬直した。ついでに言えば僕も思わず足を正し、これが兄の言っていたもっとデカい台風かと思った。
「そんなにあいつらが迷惑なら全員殺して、オレも死んでやるよ!」
「ええっ!?」
「おおっ!」
父と母と僕は驚愕の声を上げて、兄は歓声を上げた。正気かこいつと思ってみると、兄の目は輝いていた。たぶん想像を上回る行動だったのだろう。
「まま、待ってください!おばあさん落ち着いて!」
「そうですよ!何もそこまでするなんて!」
「あいつらはオレの家族みたいなもんだ!他に行き場もねえ、でも人様に迷惑もかけらんねえ!そんなら、死ぬしかね!」
騒ぎを聞きつけてなんだなんだとご近所の人たちが顔を出し、縁側から下りた父と母は大きくなる騒ぎにあたふたするばかり。
見かねたようにため息をつき、兄が縁側から声をかけた。
「おばあさん、母さんの言ってたことは本心じゃないですよ。ちょっと気が立って口が滑っちゃっただけです。そうだよね、母さん」
「え、ええ。そう、そうです。あんな可愛い猫ちゃんたちが迷惑なんてわけありませんとも。貴重な日々の癒やしです」
険のある声でノラども呼ばわりしていたのが嘘みたいな猫なで声だ。
「そうか?ならこれからも、あいつらに餌やっていんだな?」
「それはちょっ…」
「ええ、もちろんですとも!猫は地域の宝ですから!」
この期に及んで難色を示しそうになる母の口を塞ぎ、父が営業用のスマイルと口調で答えた。
「そうか。それならええ」
猫バアはスッと目を細めてうなずくと縁側から家に戻り、野次馬たちは三々五々に散っていった。
父母も疲れた顔をして家に入り、しっかりと縁側に続くガラス戸を閉じて深いため息をついた。
「引っ越したい」
心底から絞り出すような母の一言に、父も苦笑いを浮かべながらうなずいた。