みそ(業務用)の日記

2023年02月26日 19時47分

五月の低い空 3

兄、達彦は昔から利発で要領がよく、小学生になってからは神童とまで呼ばれていた。自分の名前を漢字で書けるようになるのも、九九を覚えるのもクラスで一番早かった。おまけに教師たちへの受け答えもハキハキ元気よく、ひょうきんなところもあって皆が一目置く人気者だった。果ては医者か官僚か、ひょっとして宇宙飛行士か。そんな風に近所の人からおだてられ、母は謙遜しつつもまんざらでもなさそうな顔をしていた。
その一方で元気に砂山を吹き飛ばしていた僕も、満を持して小学生になった。私立とかそんなものはない田舎町、当然兄と同じ小学校に通うことになる。あの神童の弟はいかほどか、教師たちは期待の込もった眼差しで僕を見ていた。しかし入学時をピークとして、僕の評価は右肩下がりになる。
漢字はおろか、ひらがなカタカナですらちょっと覚束ない、足し算引き算でうっかりミスを連発する。時計も空気も読めない。指名されても立ち上がってもおどおどするばかり。級友に声をかけられると背筋をピンと伸ばして敬礼する。三つ子の魂百までとは言うが、三つのときに覚えたギャグをそこまで引きずるとは妙なところで律儀だ。ともかくそれらの結果として、僕は教師からも級友からも変な奴という認識に落ち着いた。
神童と比べてこれほどわかりやすい落ちこぼれもいないだろう。ご近所間の僕への評価は元気に挨拶する子という無難なもので母は謙遜する必要もなく、それだけが取り柄ですからとため息を吐いた。親に嘘をつかせることもない、ある意味孝行な息子と言えよう。
考えるに一番煎じである兄は父と母から能力や才能といったものを色濃く受け継ぎ、二番煎じである僕には出がらしから絞り出したような薄っすいものしか詰まっていないのだろう。たぶんほんのり色づいた水くらいの濃さ。沸かしてカップ麺に注いでも、味に変化を与えないくらいのささやかな風味。
水には水のよさがあるものだが、すでに玉露の味を知ってしまった母には物足りない。先に味の薄いものから楽しまないとそのよさはわからないというのに、母はそのあたりを理解していない。
「ほんとこの子は、どうしてこう…」
圧倒的にペケが優勢な答案用紙を前にして、母は頭を抱えた。たぶん母の白髪やシワの原因の六割くらいは僕だろう。
「すげえなお前。どうしたらこんな点数取れるんだ?」
いつも花マルをもらっていた兄は嫌味でもなく、心底から不思議そうに聞いた。天才というのは往々にして、自分ができることは他人もできて当たり前と思うものだ。できすぎてしまうから、できない人間を理解できない。
「えへへ」
すげえと言われた僕は素直に喜んだ。兄から褒められることなんて滅多になかったから。
「笑い事じゃありません!達彦はちょっと向こうに行ってなさい!」
食卓を叩く母に、兄は肩をすくめて外に出た。なんせ壁も用をなさない六畳二間だ。家の中にいては説教の声が聞こえて落ち着かない。外に避難するしかなかった。
壁の薄い昭和の香りのする長屋。母のヒステリックなお説教は隣近所に筒抜けで、もはや一種の名物となっていた。
「達彦を見習いなさい!あの子ができるんだから、弟のあなたもやればできるのよ!」
そこに至るまでの道筋は、よくもまあ毎回あんなに言葉を思いつくものだと感心するほど豊富ではあったが、母のお説教は毎回そんな言葉で締めくくられた。
幼い僕の名誉のために言っておくが、決して手を抜いてはいなかった。幼いなりに授業をよく聞いて一生懸命にやっていた。それでも無情なことに、結果がついてこなかった。
しかしそれを伝えられほどの度胸も語彙力もなく、僕はただ母の言葉にうなだれしょぼくれ、言葉の嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
泣きべそをかきながらふてくされた気持ちで外に出ると、誰かしら近所のおばさんやお兄さんお姉さんが慰めてくれたものだ。
「よっちゃんまた叱られたんか。うまい棒でも食べな」
「気にすんなって、オレだって母ちゃんから怒られてばっかだ」
「元気だしなよ。こんど勉強教えてあげるからさ」
そんな風にお菓子を与えられたり、励まされたりしてすぐに立ち直ったものだ。たぶんお菓子が一番効果的だった。現金なものだ。
我が家の頂点に君臨する母は添加物を目の敵にして、うちで出されるお菓子といえばボソボソした和菓子か硬いだけが取り柄のせんべいばかりだった。ついでに言えば料理も素材の味を生かした精進料理みたいなものが多かった。お肉はハレノヒのご馳走。健康を気遣う意識のある大人ならともかく、育ち盛りである僕も兄もそれは大いに不満であった。
「まあ、作ってくれてるだけでもありがたいと思わなきゃ」
不満をぶつけると、郵便局員である父はそんな草食動物みたいなことを言った。線の細い父はおおらかで優しくはあったが、子どもの目から見ても母の尻に敷かれていた。昭和の男なのに亭主関白なところはまるでなく、母や子どもらに対して概ねイエスマンだった。ただし母と子どもらの意見が対立した場合、父は必ず母の側に立つ。家でもそんな風に気遣いを働かせ、父はいったいどうやって日頃のうっぷんを晴らしていたのか。その謎は後年解けることになる。