みそ(業務用)の日記

2023年02月05日 20時10分

壁の落書き 後編

すぐに出たのかって、まさか。そんな度胸ありゃしねえよ。俺は情けない声を上げて、携帯を万年床の上に落としちまった。
心情的にはあれだな、都市伝説だかにメリーさんってあんだろ。電話を受ける度に距離が近づいてくるやつ。メリーさんから電話がかかってきたくらいに怖かった。
必死こいて逃げてる最中に酔いなんか醒めてる。はやしたててくる奴らは近くにいない。祭の後の熱気もとっくのとうに冷え切った。
頭はもうすっかり日常に戻ってんのに、そんなもんの相手なんてできやしないだろ。たった一人じゃ、誰とでもヤるってほんとですか!?なんて聞く勇気もない。高校生なんてそんなもんだろ。
湿った煎餅布団の上で、売られていく牛の鳴き声みたいな音を立てる携帯は口うるさい女みたいに見えた。こっちからかけといたくせに迷惑がるなんて、ほんと勝手なもんだよな。電話は留守電に切り替わってあっけなく静まった。
画面が暗くなったのを念入りに確認して、俺はホッとして携帯を掴んだ。友だちに電話をかけようとしたんだよ。無事を確かめんのと、今かかってきた電話について話したくってしょうがなかった。
通話履歴から一番上にいた友だちの番号を選んでかけようとすると、タイミングを見計らったみたいに急に震えやがった。いつもならそんなミスしないんだが、ブルってた俺は慌てふためいて思わずボタンを押しちまった。通話のボタンを。
『あっ、もしもーし。やっと繋がった』
電話の向こうから聞こえてきたのは、飽きるほどに聞いた友だちのだみ声じゃない。どこかけだるげな女の声。画面にはもちろん例の11桁。誰とでもヤるらしい女。
俺の頭の中はもうパニックだ。ヤバい、と、どうしよう、ってアホみたいな言葉しか浮かんでこなかった。
『ちょっと、聞こえてんの?』
携帯を持ったままフリーズした俺に焦れたように、電話の向こうの声は苛立っている。急かされるのに弱い俺はつい応答しちまった。
「も、もしもし」
ごくりとつばを飲み込んでから返した一言は、息が足らずにかすれていた。
『なに、息継ぎしてない魚みたいな声』
クスクス笑う声は急に親しげで少しホッとした。
「魚は声なんて出さないだろ」
男子校で女と話したことなんてろくになかったんだ、しょうがねえだろ。気の利いた返事なんてもんは俺の辞書になかった。まあ、たぶん今もねえけどな。
『出すよ、声。フグとか釣り上げるとなんか鳴いてる』
「えっ!?フグって、あのフグかよ!?」
俺の頭の中に浮かんだフグは、グルメ番組で見た花みたいに盛り付けられた刺し身だ。それを釣るなんて何者だと思ったよ。
『たぶんあんたの想像してるフグとは違うよ。もっとちっこくて、どこの堤防でも釣れるやつ。怒ると膨れるとこだけは一緒かな』
「あ、ああ、あれな」
想像はつかなかったが、知らないなんて言ったらバカにされると思ってな。若いときってのは変な見栄を張るもんだ。
『そう、あれ。すぐリリースしてやんないと、膨らんで爆発するのがやっかいだよね』
マジかよ。毒があるだけじゃなくて爆発まですんのかよ。フグヤベえな。
若い俺は素直に信じてゴクリとつばを飲んだ。ヤベえ…くらいはつぶやいてたかもしれねえ。
『下手すりゃ竿がだめになるし、毎年怪我する人もいるもんね』
「そ、そうだな。俺も、危ねえことは何度もあった」
『そ、そうなんだ…』
「ああ、もうちょっとで腕が吹き飛ぶとこだったぜ」
真面目に話を合わせたつもりが、電話の向こうから返ってきたのはけたたましい笑い声。
それでやっとわかった。あ、俺、からかわれてたんだって。
「な、なんだよ!お前ウソつきやがったな!?」
『ごめんごめん、でもあんただって知ったかぶりしたじゃん。それでおあいこ、ね?』
あーおかしいと女はしばらく笑いの余韻が収まらないみたいだった。
なんであれ、結果として俺がそんなに笑わせたんだと思うと気分はよかった。男って単純なもんだな。
『てか、あんたさっき何してたの?電話かけてきたと思ったらなんかお祭りみたいな声出して、がさごそと音してたし』
「ああ…」
ごまかしてもよかったんだが、なぜだか素直に経緯を話しちまった。ところどころで最悪、とか、キモっとか悪態をつかれはしたが、女は楽しげに話を聞いていた。特に警察を押しのけるとこはなにそれバカじゃんって大笑いしてたな。
話してる最中に俺は思ったよ。こいつは誰とでもヤル女ではないなって。童貞の勘だな。
「なあ、お前はなんで電話に出たんだ?」
あの番号はたぶん誰かに落書きされたやつで、それに出てやる義理なんてない。そう思って聞いた。
女はちょっと考えるような間の後に答えた。
『ウンザリしてイライラしてたの。またかよって。思いっきり文句言ってやろうって思って出ただけ』
よくある話かはわからねえけど、女の話はこうだった。
女子のリーダー的存在のA子。そいつの彼氏に女がちょっかいを出してるといちゃもんをつけられた。身に覚えのない女はもちろん否定した。
むしろ実際にちょっかいを出してたのはA子の彼氏の方だった。女からA子に報告されたらまずいと思って、彼氏は女が悪いとウソをついたわけだな。
で、女の申し開きは受け入れられず、イジメが始まった。胸糞悪い話だ。
『あんたが見つけた落書きはそのひとつ。夜中とかでもかかってきて、いい迷惑だよほんと』
「それは、すまねえ…」
『別に、あんたが謝ることじゃないって』
「で、でもよ…」
そう言われても罪悪感は湧いてきた。
『まあ、そういうわけで残念だけど、私は誰とでもヤル女じゃないの。これで用は済んだでしょう。じゃあね』
「あっ!ちょっ…!」
早口にまくしたてられ、プツっと糸でも切るみたいに通話が切れた。かけ直すことも考えたが、たぶんもう出てくれないような気がしてやめた。
そのかわり俺はない知恵絞って考えた。なんかできることはないかって。でまあ、出た結論は単純だった。
落書きを片っ端から塗り潰す。
幸い家は工務店だからな、ペンキにゃ事欠かない。バレたら親父に大目玉を食らうだろうがそんときゃそんときだ。
なんで見ず知らずの人のためにそんなことしたのかって、寝覚めが悪いだろ。最後に聞こえた声が、ちょっと泣いてた気がしたからな。
理由なんてそれでじゅうぶんだろ。
で翌日、文化祭の振替休日で学校は休み。昼間っからペンキの缶をチャリの荷台に積んで、あっちこっち回った。
よく見りゃ町中っていろんな落書きがしてあんだな。高架下、トンネル、裏通りの壁、もちろん公衆便所。
そこらにある悪意ある落書きを白ペンキで塗り潰して回った。罪悪感を塗り潰すみてえに。
すっかり日も暮れて、服にも顔にもペンキが飛び散って腕も足も疲れた。もう帰ろうかと思った。
でもまだ一箇所、昨日の公園のトイレ、そこだけはやっとかなきゃなってチャリを走らせた。
落書きはもちろんそのままそこにあった。たっぷりのペンキで塗り潰して出ると、近くの高校の制服を着た気の強そうな女が、俺のチャリのそばに立ってた。
なぜか直感でわかったね。こいつは昨日電話した女だって。
それからどうなったか?あとはつまらん話だ。続きが気になるならあいつに聞いてくれ。お義母さんって、お前。まあそうだけどよ、俺のことはお義父さんなんて呼ぶなよ。