みそ(鳩胸)の日記

2023年02月04日 20時04分

壁の落書き 前編

公衆便所とか地下道の壁とかにさ、よく落書きがしてあったろ。誰かを誹謗中傷するようなやつとか、電波でも受け取ってんのかと思うようなやつとか。たまにやけに凝ってて芸術的に思えるようなやつもあったりしてさ。まあ芸術なんて言ったもん勝ちなんだろうけど。
もう最近でもないけどなんだっけあれ、ほら、風刺的な落書きして芸術だって言われてたやつ。あ、そうそう、バンクシーだ。やだね、近頃忘れっぽくてさ。とっさに物や人の名前が出てこなかったり、立ち上がったりしても何しに立ったんだっけてなことがたまにあるんだよ。
それでも人間不思議なもんでね、昔のことはよく覚えてるもんなんだ。
これは俺が高校生の頃の話でな、スマホなんてもんはなくて二つ折りケータイが当たり前だった時代の話だ。ネットもまだまだそんなに便利なもんじゃなくて、SNSもツイッターとかフェイスブックなんて有名なもんはまだない。あってもちょっといかがわしさの漂うような安っぽいやつばかりだった。
ようやく個人情報やネットリテラシーなんてのが注目されてきたばかりで、壁の落書きには過激なもんがたくさんあった。その中でもよく見かけて、俺たち馬鹿な男子高校生どもが惹きつけられたもんはあれだ。この女はヤれるって売り文句と携帯番号が書いてあるやつ。
いくらノータリンで猿並みの性欲を持て余してる年頃っつても、そんなもんを信じて電話をかけるような馬鹿はいない。どう考えたって怪しいもん。ただより怖いもんなんてない。よしんば奇跡的に会えたとしても、バックに怖いお兄さんがいたりしそうでイタズラにしたってかける気になれない。
そのくらいの判断力はあったんだが、あの日は文化祭の打ち上げの帰りでみんな浮かれてた。覚えたての酒も入ってたな。固いこと言うなよ、もう何十年前だと思ってやがる。そんなもん時効だ時効。
それでだ、夜もふけた街を男ばかり5人くらいでうろついていたんだ。特に目的なんてねえよ。祭の後の寂しさのせいだな。このまま帰ってその日が終わっちまうのが惜しい。みんなそう思ってんのがわかった。それで普段なら入りもしない草もボーボーに生えた公園に飛び込んで、ブランコやらジャングルジムやらすべり台やら、すっかり小さくなっちまった遊具で遊んだもんよ。
酒が入ってるから当然便所は近くなる。ガヤガヤと雁首並べて臭いが染み付いたトイレに入って用を足してると、誰かがこれ見ろよって言い出した。おめえの**になんて興味ねえよ。バカそうじゃねえよ、壁だよ壁。
そいつが見つけたのはよくある落書き。この女はヤれるってうたい文句と090から始まる携帯番号。
普段なら見向きもしないか、お前かけてみろよ嫌だよと冗談めかして言うようなもの。決して本気になんかしないもの。でもその夜はそれがなぜだか特別な体験に繋がっているように思えて、誰かがつばを飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
まだ夏の名残が留まった蒸し暑さと、文化祭の熱気が化学反応を起こしたせいかもしれねえな。酒も入ってたし、変な脳内物質が出てたんだろ。あと何よりも若かったし、揃いも揃って童貞だったからな。女の身体は未知のもので、AVや雑誌でしか見たことがない。変な話、純粋な憧れと性欲がそこにはあった。
誰かが真面目なトーンで言い出した。なあ、じゃんけんで負けたやつがかけてみようぜと。いつもならふざけんなよ言い出しっぺがかけろよとか言って終わるところを、みんなして互いの顔を見合いながらおずおずと手を握った。
ようやく鳴き始めた秋の虫たちの声を蹴散らすほどの大音量で俺たちは最初はグー!のかけ声を発した。あれほど気合の入ったじゃんけんはなかった。勝って安心して末路を見届けたいような、負けて万が一の可能性に賭けてみたいような、複雑な感情が頭をぐるぐると巡っていた。
そして気がつくと、俺は負けていた。最後の一対一の勝負で俺に勝ったやつは、ホッとしたような名残惜しいような不思議な顔をしてやがった。あんな顔の人間を見たのはあれが最初で最後だよ。なんつーのかな、どんな俳優でもあの顔を作れ、って言われてもできねえような顔だ。青春のすべてが詰まって、爆発したような。
おいおい、そう焦るなって。急かしたところで結末は変わんねえんだ。童貞かよお前。もちろん俺は電話をかけたさ。マジでやんの、なんて言いながら番号打ち込んでみんなに見せて。興奮してみんなに見せてるうちに誰かが通話ボタンを押しやがった。
バカッ、マジかよお前、心の準備がなんて言いながら俺は携帯を耳に当てた。プルルルルって呼出音がする携帯に押し合いへし合い耳を寄せて、暑苦しいのなんのってありゃしない。便所の臭いとアルコールの入った男どもの体臭が混じって、ありゃ最悪だったな。
何コールかして外からなんか声が聞こえた。俺たちの陽気さとはかけ離れた、不機嫌そうな硬い声。
思わずつばを飲み込んだとき、誰かがおい!と慌てたような声を上げて窓を指さした。つられて見ると赤い光が見えた。そして公園の入り口の方からは硬い声。
ちらりと顔を出すと二人の人影が見える。あまりにもうるさくて誰かが通報しやがったのか、警察だと誰かがつぶやいた。
普段なら補導されるだけですむが、その日は非常にまずかった。酒を飲んで騒いでいたんだ、よくて停学、悪くて退学か。俺たちが出した結論はひとつだった。
便所の入り口に立った警官をにわかスクラムを組んで押し倒し、そのまま三々五々に夜の闇へと紛れた。それぞれ別方向に逃げりゃ簡単には追ってこられまいという誰かの判断は当たり、俺たちは無事に逃げおおせた。あれはしばらく仲間内で語種になったな。今でもあんときのやつに会えば必ずその話になる。人様に迷惑はかけちまったが、過ぎてみりゃ麗しい青春の一ページよ。
電話はどうなったのかだって。お前もスケベなやつだねえ、そんなに気になんのかい。まっそりゃそうか、そっちがメインの話だもんな。
無事に家に帰り着いた俺は、警察が追ってきてたらどうしよう、明日とかになって来たりしねえよな、とか万年床の上で不安に震えてた。なにか重大な犯罪を犯したわけじゃあるまいし、躍起になって追っかけられるようなわけもねえんだけどな。集まってた奴らの無事を確かめようと携帯を探したときにやっと思い出した。
そう言えばあの電話はどうなったんだって。マヌケなことに携帯は開いたまま手に持っていた。俺はバトンみたいに携帯を手に持って逃げてたわけだ。
通話はもちろん切れてて、画面にはあの番号が表示されている。履歴を確認すると数分だけ繋がって切れていた。どうやら俺は、誰とでもヤるらしい女と数分間だけ繋がっていたらしい。
警察から逃げるのに必死で、こちらからは何も喋ってはいない。それなのに女は通話を切らなかった。聞こえていたのなんて死にものぐるいで走る息遣いだけだろうに。
誰とでもヤる女は思考回路も違うのかと、妙な感慨を抱きながら履歴を見つめてると、ふいに携帯が震えた。落としそうになって慌てて掴むと、その画面には名前じゃなくて登録されていない番号が表示されていた。記憶に新しい11桁の番号。そう、誰とでもヤるらしい女からのラブコールだ。