2022年05月21日 20時13分
スノードーム
慶子ちゃんの家はお金持ちだった。目隠しにしては立派過ぎる植え込みとたぶん大理石の門柱。インターフォンはもちろんカメラの映像付き。門柱に埋め込まれた表札ですら威風堂々として見える。
家と繋がっている車庫のシャッターはボタンで開き、中には誰もが目を見張る三台の高級車。庭には青々とした芝生と黒いシャープな雰囲気の犬小屋、花屋さんの店先のように色鮮やかな花が並んでいる。犬小屋はお父さんがDIYで作り、花はお母さんの趣味らしい。
白い壁と黒い屋根の家はモダンな外観で、一階と二階の間にあるひし形に切り取られた採光用の窓がスタイリッシュだ。慶子ちゃんの家に遊びに来るたびに、私は自分の住むくたびれた木造家屋と比べてため息をついていた。
家の中に入るとふんわりと良い香りがして、慶子ちゃんちだなあという気持ちになった。玄関もうちのように靴が散らかっていたり、靴箱の上に新聞や回覧板がほっぽって置かれたりなんてしていない。
靴は必要最小限だけ出して残りはきっちり靴箱に収納。ちょっとお出かけ用のダサいサンダルなんて見たことがない。靴箱の上にはおしゃれなのかよくわからない幾何学的なオブジェが並び、壁にはどこかの港の絵とドライフラワーをあしらったリースが飾られていた。
入って右手がリビングで、庭と行き来できる大きなガラス戸がついている。ガラス戸から続く縁側のようなところにはさすがにサンダルが置いてあって、それにちょっとホッとした。
キッチンはオープンキッチンでお酒でも飲めそうなカウンターに、見たことがない外国の調味料や香辛料を入れた瓶がずらりと並んでいた。壁掛けのテレビは何インチかわからないほど大きく、ソファは座り心地が良すぎて何時間でも居座っていたくなるほどだった。
しかしこのホテルの一室みたいなリビングで遊ぶことはあまりなく、二階にある慶子ちゃんの部屋に入り浸っていた。薄っぺらい襖一枚で仕切られた私の部屋と違い、鍵がかけられるのを心底羨ましく思ったものだ。
内装だってあまりにも違う。どこか黄ばんだ壁紙や毛羽立った畳ではなく、やわらかなオフホワイトの壁紙にピカピカのフローリング。ベッドは見るからにふかふかで実際に寝させてもらうと、いとこのお姉ちゃんのお古のベッドとの寝心地の差に愕然とした。液晶テレビはもちろん、パソコンだって与えられている。絵本に出てくるような、つやつやの毛並みのテディベアがどれだけ愛らしかったことか。
不公平という言葉や、経済格差という言葉を知って真っ先に思いついたのは慶子ちゃんの家だった。
ある冬の日、いつものように慶子ちゃんちに遊びに行くと、本棚の上に見慣れない小物が置いてあった。
「慶子ちゃん、なにこれ?」
「ああそれ。スノードームだよ」
「スノードーム」
手のひらサイズの丸いガラスの中に広がる世界に、私は心を奪われた。雪化粧の街並みを背景に、ビルの屋上に長いスカートを履いた少女が腰掛け、寄り添うように空を泳ぐつがいのイルカを見上げている。
いつか見た夢を、そのままガラスの中に閉じ込めたようなそれを、私はじっと見つめた。
「叔母さんがアメリカのお土産にってくれたの」
軽く言いながら慶子ちゃんはひょいと夢の球体を持ち上げ、私の手のひらに乗せた。両手で受け止めて間近で見ると、キラキラとしたものが底の方から浮き上がっていた。
「わあ…」
口を半開きにした私に慶子ちゃんはくすりと笑った。
「ゆっくりとぐるんってひと回りさせてみて」
落とさないようにこわごわと言うとおりにしてみると、夢の景色はさらにその輝きを増した。
ふわりと舞い上がった金と銀のキラキラが、ゆっくりと雪のように空から降ってきて、つがいのイルカが光とたわむれるように泳ぎ回る。それを見上げる少女のほっぺをキラキラはくすぐり、眠りに着くようにビルの上に、あるいは地面に降り積もる。
スローモーションのようにゆったりと流れたその光景は、私の網膜に鮮明に焼き付いた。
「すごい、きれーい…」
「ねっ、きれいでしょ」
屈託のない笑顔を向ける慶子ちゃんを、おやつ持ってきなさーいと階下からお母さんが呼んだ。慶子ちゃんははーいと答えてすたすたと部屋を出ていく。
ドアが閉じられたとき、私の頭に悪い考えが浮かんだ。
もらってしまえばいいじゃん。慶子ちゃんはこんなにいろんな物に恵まれているんだから、ひとつくらいわけてもらってもいいでしょ。許してくれるよ、友だちなんだもん。
手のひらに乗った、美しい夢を閉じ込めた球体。ポケットに忍ばせるには手頃なサイズに見える。これはそういうのじゃない、試しに入れてみるだけだから。
誰への言い訳かわからないことを頭に浮かべながら、震える指でポケットに入れようとすると、ギイとドアが開いた。
「やった、今日はママのレモンケーキだよ。わたしこれ好きなんだ」
明るく笑う慶子ちゃんの顔が凍りつき、表情をなくした。
「なにしてんの」
ガラステーブルの上に、ガシャンと乱暴な音を立ててお盆が置かれる。その拍子に細長いグラスに注がれたジュースがこぼれてケーキに飛び散っても、慶子ちゃんは私に色のない視線を向け続けた。
「ち、ちがうの、これは、そうじゃなくて」
「それ、そんなに欲しいの?」
しどろもどろに言い訳する私を遮り、慶子ちゃんは温度のない声で問いかけた。
「だから違うの、盗もうとしたわけじゃ」
「いいよ、美樹ちゃんにあげる」
ふいに明るくなった声。
「えっ?」
それが望みだったはずなのに、貼り付けたような笑顔の慶子ちゃんを見て、私は大きく首を横に振った。
「も、もらえないよ、叔母さんからのプレゼント」
「いいっていいって、叔母さん旅行に行くたびに似たようなもん買ってくるんだもん。もうそんなの喜ぶほど、子どもじゃないのに」
言外にお前は子どもだと言われた気がして、私は耳まで真っ赤になった。悔しくて、なぜだかひどく悲しくなって、私は何も言えなくなって、ただ手を震わせた。
「ほら、それよりケーキ食べよ。レモンの香りが逃げちゃう」
不自然な明るさでケーキにかぶりつき、おいしーいと大げさにほっぺに手をやる慶子ちゃんを見て、胸に穴が空いたような感じがした。慶子ちゃんと私の関係が、友だちじゃない何かに変わってしまった気がした。
その日の帰り道、雪が降り積もった歩道に足跡をつけながら、私はスノードームを見つめた。
歩くたびに揺れて、ふわりとキラキラが舞い上がり、でもそれを、慶子ちゃんと一緒に見たときのようにきれいとは思えなかった。その後の慶子ちゃんの空虚な明るさを思い出し、胸の奥からなにか熱くて、どろどろしたものがせり上がってきた。
「うわあああ!」
喉から飛び出したそれとともに、私は球体を雪の絨毯に投げつけた。街灯の下に落ちたそれは、離れた場所からも夢の中のようにキラキラと光って見えた。
こんな、こんなもののせいで、私は慶子ちゃんと。
拾い上げたスノードームは、街灯のぼんやりした明かりの中、これまで見たどんなものよりも美しく輝いていた。私はそれがとても悲しくて、涙がこぼれて止まらなくなった。
返さないと。慶子ちゃんに謝って、返さないと。
これを返せば、慶子ちゃんとの関係は元通りになると思った。でも私はまだ、この手のひらサイズの大きな裏切りを、彼女に返せていない。