みそ(業務用)の日記

2022年05月15日 20時04分

5月の空は 前編

五月の連休の始めの今日は冷たい雨が降り、季節が逆戻りしたかのような寒さだった。
それにも関わらず観光客風の家族連れやカップルで賑わう駅の待合室の中、わたしは気配を殺すようにすみっこのベンチに座っていた。朝からそうしていても、入れ代わり立ち代わりになる人々から見向きもされない。まるで道端に転がる石ころにでもなったような感覚。
全面がガラス張りになった窓からはホームがよく見える。電車が行ったり来たりしてその度に浮かれた様子の人たちが下車して、同じくらいの人たちが乗車していく。アクシデントなんてなにも起こらず、電車は当たり前のように停車して出発していく。
キャリーケースを転がす音と楽しそうな会話がそこら中から聞こえてきて、まさしく連休の駅という感じがする。
「ママー喉乾いた」
荷物を整理するためにベンチを利用していた家族連れの、小学生くらいの女の子が甘えるような声をあげた。
「少しは我慢しなさい、さっき買ってあげたばかりでしょ」
「パパのでよかったら飲むか」
「ええー、じゃあいらない」
「あっ、ほら。電車来ちゃうし早く行きましょ」
母親にせっつかれるように家族連れが慌ただしく出ていく。まじまじと見てしまっていたからか、出ていくときに女の子がちらりとわたしを振り返った。知らん顔して目をそらし、ホームに向かうのをガラス越しに横目で盗み見た。
ママ、か。
わたしにとってママはふたりいる。わたしを産んで少学四年生まで育ててくれたママと、中学校に入ってからできた新しいママ。新しいママのことは名前でさん付けでしか呼べない。そうしたらママに申し訳ないような気がして、段々とママの記憶が上書きされていっちゃうような気がして、怖くて。
ママはわたしが小学四年生のときに事故で死んでしまった。電車に飛び込んで自殺しようとした人を助けようとして、巻き込まれて。
そんな知らない人なんてどうでもいいから、ママに生きていてほしかった。正義感や道徳心よりも、わたしのことを選んでほしかった。パパは自分本位なわたしの言葉を、責めることなく受け止めてくれた。
「ママは優しい人だったからね。そんなことに気がついたら、放っておけなかったんだよ。パパはママのそういうところが好きだった。でもやっぱり、生きていてほしかったよなあ」
パパは後ろを振り返るようにそう言って、わたしを抱きしめて泣いた。
それから二年後、六年生になったわたしにパパが紹介したのが静流さんだった。
名前の通りに物静かで儚げな、日陰に咲く花を思わせる人。ママがひまわりなら、静流さんはすずらん。ママを失った悲しみの影に、そっと揺れる花。
静流さんは無理にわたしとの距離を詰めてこようとすることはなく、かと言って放っておくのでもなく、絶妙な距離感を保ってくれた。言動の端々で、わたしのことを慮ってくれていることがわかってしまい、静流さんのことが嫌いになれなかった。
だから再婚しようと思うと言われたときも、反対できなかった。パパにとって静流さんは必要な人なんだとわかったし、わたしも心惹かれていたから。母親としてどうかはわからないけど、人として好きだった。
でも心の片隅には、パパにぶつけたい言葉が消えかけの線香花火のようにくすぶっていた。
パパはもう、ママのことを忘れてしまったの。もう、愛していないの。
赤い光を灯したまま、胸の奥にしまいこまれた。

わたしが中学校に上がると同時に、新しい生活が始まった。わたしとパパと、静流さんの三人の生活。
ママと住んでいた古ぼけた狭いアパートから、オートロックもついている新しくて広いマンションに引っ越した。薄いふすまではなく、鍵のかかるちゃんとした部屋を与えられたわたしは舞い上がった。パパと静流さんの寝室も、もちろん鍵のかかるちゃんとした部屋だ。
キッチンとひと続きになった広いリビングから続く畳敷きの和室に、ママの仏壇は置かれた。横開きの薄い扉一枚でママは隔てられてしまい、用もなくそこに立ち入るのはなんとなくためらわれた。静流さんの目を盗んで出入りする度に、どうしてこんなにコソコソしなければならないのだろうともやもやとした不満がくすぶり、胸にしまいこまれたままの線香花火に火をつけた。
静流さんに気遣ってパパがそうしたのはわかる。でもそうするのはかえって不自然な気がした。静流さんだってそんな風にされては余計に気になってしまうだろう。
わたしはある日から、和室に続く扉を開け放つようにした。
朝一番のわたしの仕事は、新しいお水とご飯をママの仏壇に供えることだ。それをするたびに扉を開閉していたけど、閉じずに開け放ったままにしておいた。
「陽咲(ひなた)、扉開けっ放しになってるぞ」
「いいの、それで」
「いいって…」
「あなた」
眉をひそめるパパに静流さんが目配せして微笑んだ。パパは不承不承と言った感じで出勤していった。
「ありがとう、静流さん」
お礼を言うと静流さんは首を横に振った。
「ううん、私だって気になっていたし、私から言い出すべきことだったのに。ありがとうね、陽咲ちゃん」
「言い出すべきって、静流さんまじめ過ぎ」
思わずぷっと吹き出してしまうと、静流さんもそうかなと言って小さく笑った。やっぱりわたしは、この人のことが好きだと思った。

ゴールデンウィークにはいつも前橋にあるママの実家に帰っていた。ママがいなくなってからもその恒例行事は変わらず、わたしは今年もそうするものだと思っていた。おじいちゃんとおばあちゃんはママに似ておおらかな人たちだし、静流さんとの再婚を報告しに行ったときにもパパと手を取り合って泣いて喜んでくれて、わたしにもよかったねと笑いかけてくれた。
だから静流さんも受け入れてくれると、わたしは思っていた。おじいちゃんとおばあちゃんとの仲を、わたしが取り持ってあげなきゃと密かに張り切っていた。
そんなゴールデンウィーク前夜、パパは言いづらそうに口にした。
「いや、陽咲。今年はちょっと、やめておこう」
「えっ、どうして?」
キョトンとするわたしにパパは困りきった顔をして、静流さんは身を縮こまらせた。
「前橋のおじいちゃんから電話があったんだよ。今年から無理にうちに来なくてもいいよって」
「なんで?わたし無理なんかしてないし。おじいちゃんもおばあちゃんも、今度はぜひ静流さんも連れてきてね、って言ってたじゃん」
「それは、建前と言うか、なあ。おじいちゃんとおばあちゃんが静流に会いたいのは本当だけど、実際にそうするまでには、時間がかかるんだよ」
「なにそれ、意味わかんない」
ふてくされた気持ちでそっぽを向くと、ママの顔が見えた。狭い遺影の中でにこやかに笑う、ママの顔が。
「ママがいてくれればよかったのに」
ポロッと出てしまった。思っていても、絶対に言ってはいけない言葉だとわかっていたのに。
「陽咲っ!」
パンと乾いた音がして、頬がジンジンと熱くなる。パパがまるで自分がぶだれたような顔をして、わたしを見ていた。
「陽咲ちゃん」
気遣わしげに触れようとする静流さんの手を払いのけて、わたしは自分の部屋に逃げ込んだ。そして後ろ手に鍵をかけた。これまでかけることなんてなかった鍵は無機質な音を立てて扉を閉ざし、わたしの目からはぼたぼたと涙がこぼれ落ちた。

t…‥u

これはとーちゃんがクソ

2022年05月17日 22時01分