2022年04月24日 17時43分
レールウェイ
子どもの頃は大人になったら怒られることなんてないと思っていた。
あれをするなこれをしろと、母や教師から怒られて、頭ごなしに押し付けられてばかりだった少年時代。
僕はプラレールが大好きで、飽きもせずにレールを繋いでは新しい路線を走らせていた。五歳の誕生日のとき、父が初めて僕に与えてくれたおもちゃ。教育熱心な母は嫌な顔をしたが、時間を設けることで折り合いが付けられた。
一日三十分。それが僕に許された、母に指図されずにいられる唯一の時間だった。
しかし遊びたい盛りの子どもにとって三十分なんてほんの一瞬だ。線香花火が落ちるよりもあっという間に過ぎ去っていく。線路はいくら繋いでも、繋ぎ足りないのに。
「はい、もう時間よ」
架空の人々の生活を乗せ、架空の駅を目指して突き進むプラレールは、母の無慈悲な手によってあっさりと止められてしまう。たとえ駅へと向かう線路が途切れたままでも、母にとって時間とは絶対なものだった。プラレールに乗った人々の生活よりも、僕の気持ちよりも優先される。
「あなたのためを思って言っているんだから」
不満が顔に出てしまうと、決まってそのようなことを言われた。善意の押し付けをしてくる大人はたいてい、母のように正しい教育を施す自分に酔った顔をしていた。どうしてそうしなきゃならないのか聞いても、曖昧な答えが返ってくるだけで納得いかなかった。聞き返す度に、大人の顔は歪んで怖くなった。
しかしいくら中断されても、僕の頭の中では呼吸をするように新しい路線図が描かれていった。布団に入ってから寝付くまでのうたかたのような時間、それを思い描くことが一番の楽しみだった。僕に作られるのを待っている路線は無限にあった。
やがて僕は疑問を抱いて抗うよりも、機械のように頷いていた方が丸く収まることを数年かかって学習した。そうすれば怒られることは減っていき、説教の時間は格段に短くなった。僕にはそれが正しく賢いやり方だと思えた。
頭の中で路線図を思い描くこともいつしかしなくなり、そこには遊び心なんて微塵もない漢字や数式や英単語が詰め込まれた。プラレールは線路を走ることをやめて、押入れに追いやられた。代わりにそこには無味簡素な塾の教材や、母の趣味である由緒正しい文豪の全集が並んだ。
本を読む時間に制限をかけられることはなかった。母の基準では健康に線路を走るプラレールは無意味だが、性的な描写を含んだ文豪の著書はいくら読んでも教育にいいらしい。
そんな風に頭でっかちに成長した僕は、いちいち反抗的で怒られてばかりいる同級生を見て、学習しないやつだなと見下していた。そういう気配に人は敏感なもので、そういった輩から僕は蛇蝎のごとく嫌われていたが、一向に気にしなかった。
僕がどんな態度を取ろうと手を上げればそれは向こうの落ち度となり、自分で自分の首を絞めるだけ。教師は落ちこぼれの不良ではなく、模試で成績を残す優等生である僕の味方になった。でも今にして思うと教師が向ける目にこもる温情は、優等生の僕に向ける数字を見るようなものより、手のかかる不良に対しての方が温かだった気がする。まるで機械を見る目と、生き物を見る目のような違い。
そんなことにも気が付かなかった僕は従うことばかりを覚えた。そうすれば大人の言うレールから外れず、いわゆる勝ち組の人生を歩めると教わったから。教科書には書いていなかったが、そういうものだと教えられてきた。
学校や塾の先生の言うことを要領よくこなし、母が親戚や近所に自慢するほどの大学を出て、業界で成長株と注目されているIT系のベンチャー企業に就職した。もっと手堅い企業に入った方がいいんじゃないかと母は難色を示したが、僕は自分の力を試してみたいと思っていた。
学業や模試の成績はいつもトップクラスで、大学だって主席で卒業した。誰かから怒られることもなくなっていた僕は、自分には力があると思い込んでいた。その力を発揮するためには、旧弊な年功序列や因習が膿のように溜まった大企業よりも、自由の風が吹き創造性を重んじるベンチャー企業の方がうってつけだと思った。
しかし創造性なんてものは、自由になったことのない僕にあるわけがなかった。プラレールのように誰かが繋いだ道を粛々と走り続けるのがお似合いだったんだ。
「で、企画書、まだ出来てないわけ」
沖縄生まれの濃い顔をした髭面社長が顔をしかめる。まだ三十代だと言うのにその顔には成功者の自信と貫禄がにじみ出て、不機嫌さを隠さない低い声とともに僕を萎縮させる。
風通し良くとアイデアは共有の財産というモットーを掲げた社長の意向により、隔週で金曜日の仕事終わりに、各自が企画書を持ち寄ってディベートが行われている。有志によるものとされているが実質は強制参加だ。今週は新入社員の番で、僕と同期入社の二人が発表することになっていた。
「真広と杏の二人は一昨日には出しているんだぞ。それなのにどうして優樹だけ当日になっても完成させられないんだ」
風通しのいい開けたオフィスに僕を詰る声が響き渡る。近代的なオフィスに社長室なんてものはなく、フロア中に筒抜けだ。最低限の壁は給湯室と応接室を仕切るものだけという、風通しのよさ。
「申し訳ありません」
僕はもう何度目になるかもわからない言葉とともに頭を下げた。多くの視線が突き刺さっているのがわかる。僕がさんざん誰かに向けてきた、落ちこぼれと見下す視線。こんなはずじゃなかったのにと、情けない言葉ばかりが浮かんでくる。
「それ何度目?やめろって言ったでしょ、謝るのは」
ペンの尻でコツコツと下げた頭を叩かれ、大げさにため息をつかれる。こんな姿を同期の二人にも見られていると思うと、悔しくて情けなくて、目に涙が滲んできた。
「あのね、俺が求めているのは謝罪じゃなくて説明なの。どうして当日の朝になっても企画書が出来ていないのか、その説明。それをしてほしいわけ。曖昧な言葉じゃなくてきっちりと。さ、わかったなら顔上げて、ちゃんと説明して」
涙を堪えて意地だけで顔を上げたが、そんな説明できるわけがない。自分の無能さを言葉にして、聞き耳を立てている同僚たちに聞かせるなんて、そんな屈辱はない。そうするくらいなら、今すぐここで全裸になった方がましだとすら思える。
「なんだ、その顔は。俺はお前のためを思って言ってやってるんだぞ。いい大学を出ても、使い物にならないお前を教育するために」
まだ続くかと思われた社長の言葉は、彼のiPhoneが鳴ったことで止まった。にこやかな声で応答しつつも、僕には野犬でも追い払うようにシッシと手を振る。
助かったと思う自分がたまらなく情けなくて、視線を避けるようにうつむいたままデスクに座った。そのまま惰性でパソコンのスリープ状態を解除する。
人間にもこんな機能があればいいのに。心を抉られるような怒られ方をしても、感情をスリープさせて、何も感じなくて済むようになる機能が。子どもの頃とは比べ物にならないくらい、それも人格やプライドをズタボロにされる言葉のおまけ付きで怒られるようになった今の僕には、何よりも必要なものに思えた。
そんなことを思ったところで、パソコンは無情に白紙の企画書を突きつけてくるだけ。途切れてしまった線路の続きは、もうどこにも見えなかった。
t…‥u
社員を名字でなく名前呼び捨てなのがファミリー感あって苦手な会社だわー 僕さん早く転職しよう〜
2022年04月24日 17時56分
みそ(鳩胸)
t…‥uさん 親しみと馴れ馴れしさを勘違いしている感じがしますよね。若いのだから早めに鞍替えしちゃうのがいいですな。
2022年04月24日 18時59分