2022年04月16日 21時41分
忘れえぬ人
もう自分の中に未練はないと思っていた。もうすべては終わっていて、整理はついたと思っていた。
「あなたは私を見ていない。私と一緒にいるのに、いつも別の誰かに心が向いてる」
事の終わりの気だるい満足感の沼に沈み込もうとしている僕を、君は引きずり出した。僕は釣り上げられた魚のように、空気を求めてあえぐことしかできない。
窓から差し込む月光に晒された、悲しいくらい白い裸身から目を背ける。自分の心の内側を、覗かれるのを恐れるように。
「そんなこと、ないよ」
かろうじて絞り出した声は弱々しくて、まるで説得力がない。
「うそ。別の誰かのこと考えてる。ご飯食べてるときも、デートしてるときも、今だって。ずっとそう」
君の言う通りだった。僕の胸の中、その奥底には忘れられない人がいる。
何年経っても、何をしていても、誰と付き合っていても、頭の片隅から離れない。もう永遠になってしまったから、忘れることもできない。
美味しいものを食べていても、こういうの好きだろうなと一緒に食べてくなってしまう。新しくオープンしたお店とかに行ったときも、こういう雰囲気のところ好きだろうなと考えてしまう。愛のひとときでさえ、その体温を思い出してしまう。
それほどまでに鮮明に、深い所で、心と身体に刻まれている。彼女は今もまだ、僕の胸の中に息づいている。
「ねえ、私のこと、好きじゃないの?」
「違う!そんなわけない!」
「じゃあどうして、すぐに好きって言ってくれないの?否定の言葉だけで済ませるの?」
「ごめん、好きだよ」
好意を示す言葉を届けることすら、ためらってしまう。本当に伝えたい人には、もう届けることができないから、その代用品を探しているだけなんじゃないのかと、自分を疑って。
「そんなこと謝ってから言わないでよ!好きって言って抱きしめてくれるだけでいいのに!なんでひとつ距離を置くの!」
ああ、まただ。傷つけるつもりなんてないのに、ちゃんと好きなはずなのに、どうして僕はまた同じ過ちを繰り返してしまう。
たとえ抱きしめたとしても、ひとつ距離を置いてしまう。ひとりぶんの距離を。どうすればこの距離を縮められる。
たったひとりぶんの空白。僕の胸に大きく広がっている空白。いないけど、確かにそこにいる人。
その人が今もまだ、僕の胸の中に息づいていることを伝えるのが、誠実であるということなのだろうか。
「なにも答えてくれないんだね」
「好きなんだ、君のことは。確かに好きなんだ」
「本当に?じゃあ、愛してるって言ってよ」
泣きそうな顔で、胸に手を当てて言う姿が、彼女に重なる。
『お願い。一度でいいから、愛してるって、言って』
自分に残された時間を知って、絶望の縁に佇みながらも、彼女は美しかった。力の限り抱きしめて、僕はこの先も何度だって言ってやるって約束した。その言葉は僕の中ではもう、彼女に捧げられた言葉だった。
「ごめん」
だから僕は、こんな言葉しか口に出せない。狡くて卑怯で、こんなときに口にするのは最悪な言葉。
頬に衝撃が走り、乾いた音が鳴った。叩かれた頬はじんじんと痛みと熱を持ち、君は自らも叩かれたかのように泣いていた。
「聞きたいのは、そんな言葉じゃないよ」
ぼろぼろと流れる涙を拭い、心を封じる鎧を身に纏うように服を着ると、君は部屋を後にしようとする。
「さよなら」
「待って!」
君を追いかけようと立ち上がろうとした。でもどうしてこんなときに、優しく抱きしめてくれた、あの人のことを思い出してしまうんだろう。
やわらかな身体。あたたかなぬくもり。愛を囁く言葉。
その全てが重たい鎖になって、僕の身体をその場に留める。
中途半端な姿勢で固まった僕に冷たい目を向けて、君は静かにドアを閉めた。
別れの言葉はいつだって胸を抉る。自分の不実の末路だとしても、心は寂しさに埋め尽くされる。
そんなときには僕の胸の中にいるはずの、忘れえぬ人の姿さえも、霞んでしまう。まるで蜃気楼のようにぼやけて輪郭を失い、その存在が夢幻であったかのように遠くへ、遠くへといってしまう。
ずっとそこにいてくれればいいのに。彼女さえいればいいのに。他に何もいらないのに。そうなってくれれば、誰も求めず、傷つけないで済むのに。
そうなる日が来るのを願っているのに、きっと僕はまた、同じ過ちを繰り返してしまう。寂しさに負けて、孤独な夜を埋めたくて、誰かを求めてしまう。
彼女がずっと僕の胸にいついてくれるようになるのと、寂しさも孤独も感じないようになるのと、どちらが先なのか。
彼女よりも愛せる人と出逢える可能性なんて、考えることもできなかった。
だも
ふ、フジパン本仕込み〜
2022年04月16日 22時05分