2022年04月10日 19時06分
ココロニジイロ
桜が満開を迎えたうららかな春の日。花見の名所の公園は人々で溢れていた。薄ピンクの花びらを見つめたり、屋台で買った食べ物を口にしたりしながら、誰もが隣にいる誰かと親しげな微笑みを交わしている。
大学生くらいの男女のグループ。寄り添って歩く老夫婦。犬を連れた家族連れ。手を触れ合わせてはにかむ初々しいカップル。
花盛りの公園は、陽気さと幸福で溢れ返っていた。ひとりでいる私が、いたたまれない気持ちになるくらいに。
ひとりになりたくなくて来たのに、ひとりであることを余計に思い知らされる。
こんなにも人がいるのに、私と親しい人はひとりもいない。ちらりと向けられる目に宿るのは、哀れみか優越感。
ふと芝生の一角に人が集まっているのが見えた。桜も屋台もないのに、いったいなんだろう。
人々の視線の先にはピエロがいた。派手な色合いのラッパズボンに袖の膨らんだ上着。でも陽気な格好とは対象的に、派手なメイクが施された顔は強張っていた。
集まっている人たちの間に流れている雰囲気も楽しげと言う、どこか小馬鹿にしている感じがした。まるで目立ちたがり屋だけどつまらない子を嘲笑するような空気。
ちょっと気分が悪いなと思ったけど、パフォーマンスが始まるとそれも無理がないことだとわかった。
ジャグリングだっけ、ボールをひょいひょいと右手から左手に投げ渡していくやつ。イメージではボールが4個も5個もぽいぽいと宙に舞うんだけど、このピエロはなんというかドン臭かった。
左右の袖から取り出したふたつのボールを投げていく。それだけの動作なら誰にでもできるだろうに、その時点でもう動きがぎこちなく、ボールを取り落としそうになっている。おっとっとという声が聞こえそうなくらい体勢を崩すピエロに、ヤジと嘲るような笑いが飛ぶ。半笑いでスマホを構えるカップルまでいて、胸がざわざわとした。
ピエロよ、あんたの仕事は笑われることじゃなくて、笑わせることだろう。
なんとか体勢を立て直したピエロが、3つ目のボールを袖から取り出して宙に放る。弧を描く3つのボールを前に、不格好ながらもピエロは汗だくの形相でボールを回し続ける。くるくるくるくると、まるでボールのひとつひとつに命が詰まっていて、それを落とさまいとしているかのように。
その必死さがおかしいかのように、下品なヤジと笑い声が高まる。聴衆の中にピエロの成功を純粋に願うものはひとりもいないようだった。
こんなのに負けるな。頑張れピエロ、頑張れ。あなたはひとりじゃない、わたしが応援しているって、伝えたい。喉の奥からせり上がってくる、この熱い応援の思いを声に。
「よいしょお!」
あざ笑う声が止み、聴衆たちの視線がわたしに集まる。ピエロもポカンと口を開けて、ボールがポトリと地面に落ちた。
顔がカッと熱くなり、わたしはついさっきもそうしたように背を向けて走り去った。
仕事が忙しいというのは、気まずくなった恋人と距離を置きたいときの定番の言い訳であると思う。だってそんなの、部外者からは確認しようがないから。
ちょっと無理をすれば確認できないことはないけどそんなことをすれば相手の信頼を損ない、元の関係に戻れなくなる。過去の経験からそれを知っていたわたしは、苦い薬を我慢するように相手の言葉を飲み込んで、すれ違いの日々に耐えた。
でもそれも、ひと月を超えると我慢ができなくなった。だってそうでしょう、地球の裏側にいるわけでもないのに。電車で二駅の距離に住んでいるのに、そんなに会えないなんておかしい。お花見も一緒に行こうって、約束していたのに。
桜が咲いている期間に休みが合うのは今日しかなかった。だからわたしは、仕事で疲れたから寝ていたいという彼の家に乗り込んだ。早起きして、彼の好物がいっぱい詰まったお弁当を作って。もしも彼が本当に疲れていて、お花見なんて行けなさそうでも、一緒に食べられるからいいかなって思って。それくらい会いたかった。
彼のマンションに着いて合鍵を差し込んで玄関を開けた。ドラマみたいに来ちゃったなんて言って驚かせてやろう。それとも感極まっちゃったりするのかな。
わたしの反応はそのどちらでもなかった。
玄関を開けてすぐのキッチンに、風呂上りと思しき濡れた身体をすり合わせる彼と見知らぬ女がいた。
玄関を開けた私も、突如開いた扉に驚いたふたりも、間抜けに口を開けて立ち尽くしてしまった。
そうか、仕事で忙しいって、こういうことだったんだ。だから同棲の話をしたときも、奥歯に物が挟まったような言い方をしていたんだ。
皮肉に顔を歪めた私は、肩にかけたお弁当の入ったトートバッグをふたりの足元に投げつけて、背を向けて走り去った。
わたしは何をしているんだろう。早起きしてお弁当作って、彼氏の家に押しかけて、浮気現場を目撃して、ひとりでお花見に来て、ピエロに間抜けな声援を送って、逃げるようにその場を後にして。
衝動的に行動して躓いてばかりだ。それなりに社会に揉まれて分別もついてきたと思ったのに、全然成長していない。
落ち込むばかりの気持ちを慰めるように風が吹いて、桜の花がさらさらと舞い散る。しばらくその景色を眺めて、わたしは噴水広場のベンチに座った。桜も屋台もピエロもいないここの人気はまばらで落ち着ける。
と思ったら、わたしが来た方からハデな服を着た人がとぼとぼと歩いてきた。さっきのピエロ。顔に手を当てて、ぺりぺりとなにかを剥がしている。メイクだと思っていたものはシールだったみたいで、すっぴんになった顔は気弱そうな青年だった。
足元と噴水をちらちらと見比べながら、噴水に身体を向けてずりずりとカニ歩きをしている。なんだろう、新手のパントマイムの練習とか?
まじまじと見ていると、ふと顔を上げた青年と目が合ってしまった。なんとなく気まずい空気が流れ、どちらからともなく頭を下げる。
「あの、さっきはありがとうございました」
ピエロというのは甲高い声というイメージがあったけど、彼の声は低く落ち着く声だった。
「いえ、そんな。邪魔しちゃって」
間抜けな声援を思い出してまた頬がカッと熱くなる。
「嬉しかったです、応援してくれてる人がいるんだと思って」
爽やかな笑顔で真っ直ぐに言われて思わず、
「あ、あの、さっきから何していたんですか。噴水の周りをずりずりと」
会話の流れとまったく関係のないことを聞いてしまった。
「虹を見ようとしていたんです」
「ニジ?って、あの空にかかる」
「そう、空にかかる虹。太陽に向かって反対側、影の伸びる方角に噴水を置くと虹が見えるんです」
「あっ、それ理科の実験でやった覚えがある」
確かあのときは、ホースで水を影の先に撒いて虹を作った。
「そうそれです」
嬉しそうに笑った彼の横に立ち、わたしも一緒になってずりずりと噴水の周りをカニ歩きした。周りの人たちから訝しげに見られたが、そんなものは気にせずずりずりしていると、なんだか子供に戻ったみたいで楽しくなってきた。
「あっ、ほら!虹!」
「ホントだ!」
彼の指差す先に、小さく背の低い、かわいらしい虹がかかっていた。水しぶきを受けてキラキラと輝き、表情を変える虹はまるでわたしたちの心のようだと思った。
さっきまで憂鬱なブルーだったのに、もう陽気なオレンジになっている。