みそ(うすしお)の日記

2022年03月27日 19時50分

エコー

以前に自分が誰かに言った言葉を、時を経てその人から返されて、それに励まされて立ち直る。映画や漫画なんかでは恋人や親友を相手にそうされて、ドラマチックな場面になる。
でも僕の場合、それを聞かされても、自分はなんて偽善者だったんだろうと思っただけだった。
「一樹は一樹のままでいいんだよ。無理しないで、ゆっくりやればさ。一樹が私に言ってくれたことだよ」
他人事だからこそ言える、月並みで薄っぺらい励ましの言葉。
電話越しに聞こえる優花の声は真摯で、どんな顔で言っているのかも想像できる。素直で真っ直ぐで、優しい。そんなところが大好きで、たまに疎ましくなる。こんなときには、特に。
僕は礼を言って通話を終えた。優花はまだ話したそうだったけど、これ以上話していたら苛立ちをぶつけてしまいそうだった。
ふがいない。
ため息は誰に届くでもなく、僕の内側に沈み込んでいった。こういう思いを素直に口に出せる性分だったら、もっと楽に生きられるのかな。
少し考えたが、そんな単純なものではないなと思った。

中規模家電メーカーのお客様ご相談窓口。ご相談と言っているが、要はクレーム対応。それが僕の仕事だ。
僕はいつも、理不尽しか詰まっていないガチャを回す気持ちで電話を受ける。そして第一声からお客様の怒り具合を推し量る。不機嫌そうな声、最初から喧嘩腰の声、淡々とした声。
それぞれに共通しているのは怒りと不満。昨日まで動いていたのにどうしていきなり故障するの、販売員が言っていたことと違う、付属品を無くした。
使い続ければどうしてもガタは出るものだし、販売員がどう言って売り込んだかなんて知らないし、無くしたのはそちらの不注意のせい。
たいていは僕に言われてもと思うような、言いがかりと言ってもいい内容ばかり。それでも僕はひたすら平身低頭に謝る。申し訳ございません、申し訳ございません。
最初のころはすぐに解決策の提案をしていたが、そんなものは無意味だと気がついた。まずは怒りを宥めないとこちらの話なんか聞いてもらえない。一も二もなく、こちらの落ち度ではないと思っても、とりあえず謝る。
電話をかけてくるのは怒りと不満に支配された猛獣だ。まずは人間に戻ってもらわないことには話にならない。
しかしこれがまた、神経を擦り減らせる。
怒鳴り声や不機嫌そうな声って、聞いているだけでも嫌な気持ちになって気が滅入る。それが電話越しに延々と聞こえてくる。無駄に高性能なヘッドセットから、僕ひとりに向かって。
自分ひとりに向かって飛んでくる呪詛は心を削る。なんというか、普通に話しているのと違って、逃げ場がないんだ。他の誰もその言葉を聞いていないし、景色を見て気を紛らわせることもできない。通話が続いている間、ずっと刺々しい声と向き合い続けるしかない。
顔が見えていたらまだ少しはましかもしれない。目の前にいる人間を罵倒するのは心が痛む。傷ついた顔を見ればたぶん多少はストッパーがかかる。でも電話越しならそんなものを気にする必要なんかない。お互いに声しかない存在になっているから、こっちの感情なんて考慮されない。
そう、僕たちは声でいたぶられるサンドバッグみたいなものだ。面と向かって言うのはためらわれるような言葉を、溜め込んだストレスをぶつけられるサンドバッグ。
そんなサンドバッグに、昔の自分が言った生易しい言葉なんて、響くはずがなかった。

勤め始めた当初は希望が通って営業部に配属されていた。
足を使って商品を売り込む営業はザ・サラリーマンというイメージで、僕はスーツと革靴で武装した父の姿にずっと憧れを抱いていた。
ピシッと糊の利いたシャツに、ピカピカに磨き上げられた靴。髪は短くこざっぱりとし、髭もつるつるに剃り上げた父は清潔感の塊だった。身なりに気を遣う父は、同級生の父親に比べて若々しくてカッコよくて、それが自慢だった。
商品とその利点を覚えて、それをプレゼンする。もちろん欠点も包み隠さず。誠実さを持って売り込めば、相手に必ず伝わる。それを信条とする父は、誇り高き営業マンだった。
でも僕に仕事を教えてくれた先輩はそれを鼻で笑った。
「馬鹿じゃねえのかお前。いいとこだけ言っときゃいいんだよ。とにかく数を稼げ、数を」
「でもそれじゃ誠実さが」
「売らなきゃ話になんねえだろ、馬鹿。誠実さなんてもんは豚にでも食わせとけ」
その先輩は順調に数を稼ぎ、僕は上司に叱責されることが増えていった。
「ひと月の売上がたったこれだけかよ。いつまでも学生気分でいるんじゃねえぞ、この給料泥棒が」
悔しさを堪えて、ただ頭を下げることしかできなかった。
そもそも自他ともに認めるほど押しの弱い僕に、営業なんて向いていなかった。憧れと適正は別物だ。そのことにもっと早く気がついていれば。
数を伸ばせなかった僕は、そっちなら商品の知識を活かせるだろうと言われ、お客様ご相談窓口に配属された。「お前もとうとう俺と同じ営業マンになれたか」と嬉しそうに笑っていた父には、まだこのことを言えていない。

ワンルームにしては大きく取られた窓からオレンジ色の光が降り注ぎ、テーブルの上に置かれた封筒を照らした。退職願。
これを出してしまえば、優花とも別れることになるのだろうな。次の職場なんて決まっていない。ただもう、限界だった。これ以上サンドバッグでいることに、耐えられなくなった。
寝ようとしてもコール音が頭の中に響いて、夜もろくに寝られない。食事も喉を通らず、エナジーゼリーやサプリメントでごまかしている。このままでは自分が消えてなくなってしまいそうだった。
なんて弱いんだろう。衝動的にテーブルの角に頭をぶつけると、ピンポーンと間の抜けたチャイムの音が聞こえた。
普段なら予定にない来客なんて、どうせ新聞や宗教の勧誘だと思って居留守を使う。でも今は、なんだっていいやと思った。
誰でもいいから怒鳴り散らして、鬱憤をぶつけてやる。僕がそうされてきたように。
ひりひりと熱くなったおでこをさすりながら、ドアを開けた。思い切り吸い込んでいた息が、ゆっくりと鼻から抜けていった。
「来ちゃった」
照れ笑いを浮かべる優花を部屋に上げて、僕はすぐさま後悔した。
「もう、電気もつけないで、ってなにこれ」
退職願をつまみ上げて、しげしげと眺めている。ああ、終わった。
「やっぱり一樹、字上手だよね」
「えっ、それだけ?」
「えっ、だって辛そうだったじゃん」
ケロリと返されて脱力してしまう。
「言っていいのかなあと思ってたけど、決断してくれてよかったあ。一樹、電話してもいっつもゾンビみたいな声してるんだもん。あ、でも一言くらい相談してほしかったな。なんでもひとりで決めちゃうんだから」
「ごめん。でもいいの、辞めちゃって」
「うーん、よくはないけど、一樹が壊れちゃうよりはいいよ」
「それでもこのままでいてくれるの」
「当たり前じゃん、それくらいで別れるわけないでしょ」
毎晩毎晩ひとりで考えていたのが馬鹿みたいに思えるくらい、あっさりした言い方。
「あっ、でも働かないままでいられちゃ困るからね」
「はい、すぐに次を探します」
「無理しないで、ゆっくりでいいからね」
「どっちだよ」
やわらかな笑顔とともに届けられた言葉は、いとも簡単に僕の胸に響いた。