みそ(うすしお)の日記

2022年01月29日 21時20分

また会えるから いなほ亭

話は少し遡る。具体的には私の入園式を終えた日、まだ母が愛の逃避行に赴く前の話だ。
私と母は祖父の車に乗せられて町中へと繰り出していた。私の入園祝いにご飯を食べに来たのだ。
役場の脇にある駐車場に車を止めて、車もすれ違うのもやっとな狭さの路地に入る。古びた民家に混じってケーキ屋におもちゃ屋に、薬局や郵便局が並ぶひなびたメインストリートの真ん中あたりに、その店はあった。
入り口の引き戸にはすりガラスがはめ込まれており、その上には長年の雨風に耐えてきた風情のある一枚板の看板が掲げられいる。
いなほ食堂。
何かの節目や祝い事があるとここに食事に来るのが、我が家のしきたりだ。まあ、休みの日にふらっと来たりもしてたけど。
「らっしゃーい」
「いらっしゃいませ」
ガラガラとガラス戸を開けると、ふたりの声が出迎えてくれる。野太い声がご主人である茂雄ことしげちゃんで、朗らかな声は奥さんの琴美ことことちゃんだ。
古民家のような趣のある店内はテーブル席のみで、お水はセルフだ。
「よう」
「なんだい、お前かよ」
「まあまあ、美羽ちゃん大きくなってえ」
「あはは、どうもお久しぶりです」
ぶっきらぼうな挨拶を交わす祖父たちの隣では、母とことちゃんが手を合わせていた。美羽は母の名前。美しい羽と書いて美羽。確かに美しくは育ったけど、この先いささか羽を伸ばしすぎることになる。
「ねっねっ、その子、美羽ちゃんの娘さん?」
「そうなの、翼っていうの。ほら翼、ご挨拶は」
人見知り真っ最中だった私は、母の手を握りながらペコリと頭を下げた。
「ああ、かわいい。私琴美っていうの。ことちゃんって呼んでね、私も翼ちゃんって呼ぶから。それにしても美羽ちゃんにはあんまり似てないわねえ」
「あはは」
さしもの母も、ことちゃんのパワーには勝てないようで苦笑いで返していた。
「にしても、ほんっと久しぶりねえ。戻ってきたって聞いてたけど、なかなか来ないから気になっていたのよお」
「ええ、まあ、いろいろあって」
「おい、その辺で」
「ああ、そうだね。だめだねえ、年を取るとおしゃべりになっちゃって。はいはい、それではお席はこちらにどうぞ」
私たちは奥の席に通され、祖父の向かいに私と母が並んで座った。テーブルから背もたれのないベンチのような椅子まで、すべてに一枚板を使っているのはこだわりなのだろうか。どれも年季の入った飴色の光沢を放っている。
「それでご注文は、いつものやつでいいの?」
祖父はうむと頷き、母はお願いしまーすと頼んだ。
「はーい、アジフライ定食に親子丼お願ーい!あ、あと翼ちゃんの取皿もいるね」
にっこり言われて、よくわからなかったが私も笑顔でうなずいた。

「はい、お待ちどおさま。アジフライ定食に親子丼、それに取皿ね」
届いた料理を見て私は目を丸くした。祖父が頼んだアジフライ定食は、こんがり狐色に揚がったアジが2尾も乗っており、山盛りのキャベツとタップリのタルタルソースがついていた。
「これ好きなんだよねえ」
と言いながら、母が丼の蓋を取ると湯気とともにもわんと美味しそうなにおいが広がった。つやつやした鶏肉に醤油色になった玉ねぎ、それらをふんわり覆う絶妙な玉子。白身にはぷるんと火が通っているのに、黄身は見るからにとろとろ。上に散らされた海苔がまたいいコントラストになっている。
ちなみにお味噌汁とお新香はどちらのセットにもついている。
「すごーい」
アジフライも親子丼も見たことがなかった私は興奮した。
「美味しそうでしょ。翼ちゃんの分も取ってあげるね」
にっこり笑うと母はスプーンを使って小さなお椀にミニ親子丼を作ってくれた。
「じゃ、食べよっか。いただきまーす」
「いただきまーす」
「いただきます」
祖父はいつも私たちにいただきますを合わせてくれていた。
母にふーふーと冷ましてもらって、親子丼を口の中に運んでもらうと、じゅわっと旨味が広がった。鶏の旨味とおだしの旨味が合わさり、それをとろとろの玉子が優しく包み込んでくれる。味の染みたクタッとした玉ねぎも甘くて美味しい。おつゆの染みたご飯は柔らかくて食べやすく、私はすぐに親子丼が大好きになった。
「おいしーい!」
「でしょお、ママもこれ大好きなんだあ」
幸せそうな顔をして親子丼を頬張る母娘を、祖父もことちゃんもあたたかな目で見ていた。
「こんなに美味しそうに食べてくれると、料理屋冥利に尽きるねえ、あんた」
しみじみ言うことちゃんから見られているのに気が付かず、
「これがほんとの、親子丼、か」
しげちゃんはいい顔をしてボソリと呟き、ひとりで笑って白い目で見られた。
「じいじ、それおいしい?」
しかし子どもはそんなもには構わずに好奇心を発揮する生き物だ。特に小さいくせに食い意地の張っていた私は。
「ああ、うまいぞ。食うか」
「うん!」
祖父は器用に箸でアジフライを一口サイズにちぎり、タルタルソースをたっぷり乗せて私のお皿に移してくれた。
「ありがと!」
「ん」
パクっと食べるとサクサクし衣の中からジュワッとアジの身が顔を出す。まろやかなタルタルソースが合わさるとそれはもう絶妙で、お漬物でも入っているのかぱりぱりとした食感とともにコクのある旨味が広がる。私はアジフライも大好きになっていた。
「おいしーい!」
「だろう」
短く答えつつも、祖父は嬉しそうだった。
食事があらかた片付くと、ことちゃんがお盆に何かを乗せて持ってきてくれた。
「ありがとねえ、美味しそうに食べてくれて。オバちゃんも元気もらっちゃった。これ、サービスね」
そう言ってことちゃんが私の前に置いたのは、ガラスの容器に乗ったまん丸のバニラアイス。しかもウエハースが刺さってる。
「かわいー!食べてもいいの!?」
「ちょっと食べ過ぎな気もするけど、まいっか。あたしもこれ楽しみだったしねえ。ちゃんとお礼言うんだよ」
「ありがとことちゃん!大好き!」
お菓子をもらうと私はすぐに懐く子どもだった。
「あらまあ、この子ったら。うちに置いときたいくらいかわいいねえ」
「でしょお」
冷えたバニラアイスは、もちろんおいしかった。

それからも何かあったりなかったりするたびに、私たちはいなほ食堂に行った。母がホセとともに去った後も、通い続けた。
私が小さいころは親子丼を食べきれずに(小さいのを作ってやろうかと、ことちゃんが気遣ってくれたのに、私はでんとした丼が好きで頑なに拒んだ)、祖父が目を白黒させながらすべて食べてくれた。そのくせ私はデザートのアイスはウエハースまで食べていたのだから、まったくなんてわがままな子どもだったのだろう。
私がひとりで親子丼をすべて食べ切れた日には、祖父もことちゃんもしげちゃんも、目元に涙を光らせていた。