みそ(うすしお)の日記

2022年01月26日 21時35分

また会えるから 別れの雨音

「とても優しいひとだったから、生徒たちからも好かれて、保護者や他の先生たちからも頼りにされてた。でもそれが、よくなかったのかもね」
「えっ、どうして?」
「美羽ちゃん、翼ちゃんのお母さんが産まれる前にね、美恵さんはもうひとり子どもを授かっていたの」
「んーと、ママの兄弟?」
「そう、本当ならそうなるはずだった」
暗い声に膝の上から和恵ちゃんを見上げると、いつも明るい和恵ちゃんらしくもない、悲しそうな顔をしていた。
ぎゅっと手を握るとしわを寄せて笑い、私の手を愛おしむようになでた。
「美恵さんは優しくて、でもすごく責任感の強い人でもあって、おまけに頑固者だった。正にいにも負けないくらい。正にいは美恵さんに、早めに仕事を辞めて家に入るように言った。でも美恵さんは、ぎりぎりまで子どもたちと一緒にいたい、先生でいたいと拒んだ。お腹の中で育っていく命を見て、子どもたちにも感じるものがあるはず。そう言われて、正にいも大人しく見守ることにしたの」
あの岩よりも頑固な祖父を言い負かすとは、私は祖母のことを尊敬した。
「ばあばすごいね」
「ほんとに、すごい人だったよ。お腹が大きくなるにつれて、生徒たちは美恵さんに甘えるだけでなくて、優しくするようになっていった。荷物を持つとか、配り物をするとか、階段の登り降りを支えるとか。副担任としてそばで見ていたあたしにも、それはよくわかった。美恵さんの考えは正しかったんだって。美恵さんのお腹に触る生徒たちの顔つきは、ちょっとだけ大人のものに変わっていた。でもね、不幸な事故が起こったの」
和恵ちゃんは痛みに耐えるように、私の手をぎゅっと握りしめた。
「美恵さんはあと1週間で退職することになっていた。残り少ない日々を噛み締めるように、美恵さんは大きなお腹を抱えて授業をして、生徒たちとたくさんの話をしていた。
その日の放課後は、台風が近づいてきているからと、生徒たちには学校に残らず早めに帰るように言ってあった。教師たちも遅くまで仕事をせず、早めに帰るように言われていた。
美恵さんにそろそろ帰りましょうと声をかけると、私はもうちょっとすることがあるから先に帰っててと言われた。どうしてあのとき、あたしだけ先に帰っちゃったんだろう」
和恵さんは唇を噛み締めていた。
仕事を終えた祖母は、風の強くなってきた校庭に出た。びゅうびゅうと風の吹く中、駐車場に向かう祖母の耳に風ではない、甲高い声が聞こえてきた。
校庭にあるジャングルジム、その上に人影が見えたような気がした。まさかと思い近づいてみると、てっぺんに小さな男の子がしがみついていた。
「あなた大丈夫!?降りられる!?」
祖母の問いかけに少年は首を横に振って泣き叫ぶ。風はどんどん強さを増し、ざあざあと雨も降ってきた。柱にしがみつく手は震えて、足もガクガクしている。いつ男の子の手足が滑り、ジャングルジムから落ちてもおかしくない状況。助けを呼びに行く時間はない。
「飛び降りてらっしゃい!大丈夫、先生が受け止めてあげるから!」
祖母はそう言って、男の子を安心させるようににっこり笑った。身重の体で強風に耐えるだけでも精一杯で、お腹の中の赤ちゃんのことも心配だったろうに。
男の子は強く目をつむり、祖母へとその身を投げ出した。祖母はなんとか受け止めたが踏ん張ることができずに倒れ、背中を強く打ち付けた。雨の中に、濃く黒い液体が混じる。
「だ、誰か、呼んできて…お願い…」
薄れゆく意識の中で、祖母は男の子に頼んだ。
祖母は助かったが、祖母のお腹に宿った命は、そのまま天へと帰っていった。

「あの日、あたしが美恵さんのそばにいれば、あんなことには、ならなかったのに…」
血が滲むような声で、和恵さんが言った。きっと何度も何度もそう言って、後悔してきたのだろう。
「あなたのせいじゃないよ」
私は和恵ちゃんの頬に手を伸ばして、そう言っていた。
「誰のせいでもない。悲しいことだけど、それがきっと、あの子の運命だったの」
祖母が私の体を通して喋っているかのように勝手に言葉が出てきて、和恵ちゃんを抱きしめた。
「美恵さん…」
和恵ちゃんはちいさくつぶやいて、いまにも泣き出しそうな顔で私を見ると、寂しそうに笑った。
私は雨に打たれたように悲しくなって、和恵ちゃんのふくよかな胸にすがりついて泣きじゃくった。和恵ちゃんはあたたかくて、やさしくて、おいしそうなにおいがした。きっと、祖母のようなにおい。