みそ(業務用)の日記

2021年08月14日 22時00分

おひさま

強くなる雨足に、一志(ひとし)のため息が重なった。僕の気分をなんともどんよりさせる、雨とため息の二重奏。
僕も一緒になってその演奏会に参加したいところだけど、そうするわけにはいかない。不景気な演奏会を始めても、止めてくれるひとはもう、いない。
「梅雨なんだからしょうがないよ。アスレチックは、また今度行こうな」
慰めるつもりで言った僕を、一志はキッとにらんだ。長いまつげにくりくりした目が、よく似ている。
「ウソつき。雨降らないって、ゆったじゃん」
「天気予報だって、外れることくらいあるよ」
「今日行くって、ゆったもん!」
「この雨でアスレチックなんか行ってもしょうがないだろ。また今度、な」
なんか、しょうがない。あさひからなるべく使わないようにと言われていた言葉が、口をついて出てしまう。
それくらい、余裕がない。
「やだ、今日がいいんだもん!」
すねて泣き出した一志。それに呼応するかのように、強くなる雨足。
全部が僕を責めるように思えて、苛立ちがつのる。
「うるさい!」
僕のどなり声に驚いたような顔をして一瞬だけ一志が泣き止む。でもまたすぐに、さらに大きな声で泣き出してしまう。
しまった、またやってしまった。僕らふたりだけなのだから、もっとやさしく接しなければと思うのに。
「ごめん、一志。ごめんな」
抱き上げてあやそうとするも、強い力で手から逃れられる。それでも無理やり抱きよせると、そこらじゅうをどすどす叩かれたり、蹴られたりした。
「ママー!ママー!」
すべての悲しみをぶつけるように、顔を真っ赤にして全力で泣き叫ぶ。僕はそれを受け止め、歯を食いしばることしかできない。
僕まで泣いちゃいけない。僕以外に誰が、一志の悲しみを受け止められる。
そう思って、ただひたすら嵐が過ぎ去るのを待った。
こういうとき、あさひのあしらい方は上手だったなとふと思い出す。ずっと笑顔で、辛抱強く、一志の不機嫌に釣られずに。
雨の日でも明るい、太陽のように包んでくれた。

あさひと初めて話したのは、雨の日だった。
昼間の晴天が嘘のような、激しい夕立。天気予報では快晴と言っていたのに、それを裏切るまさかの大雨。
僕は天気予報というものをあまり信用していなく、用心深いたちのため、鞄の中には常に折り畳み傘を忍ばせていた。
大学の正面玄関で雨に立ち尽くすひとびとを尻目に、傘を広げて悠々と歩き出そうとすると、ひとりの女の子が目に入った。
同じゼミに所属している、ほとんど話したことがない女の子。自己紹介のとき、ちょっといいなと思ってたけど、人気が高そうだからとひっそり諦めていた。
「あの、よかったら、傘、入ってく?」
この機会を逃したら、たぶんもう二度と、声をかけることなんてできないだろう。
そう思い、一生に一度の勇気を振り絞ると、その子は長いまつげをしばたたかせ、くりくりした目を細めた。
「うん、ありがと」
女の子、あさひは、どしゃ降りの雨なんか吹き飛ばすくらいの笑顔で、僕のこころを照らした。

このときのことを、あさひは何度も話した。
「あんな深刻そうな顔で、傘に入るか聞かれたのなんて初めてだから、笑っちゃった」
最初に聞かされたのは、初めての夜。
緊張と不安と高揚で、なにがなにやらよくわからないうちにそれが終わり、布団のなかで手を繋いでいたときのこと。
「しょうがないだろ。女の子に声かけるのなんて初めてだったし、緊張してたんだよ」
「ああー、確かにそんな感じだった」
くすくすとあさひが笑う。
「でもこんなに緊張してるのに傘に入れてくれるなんて、やさしいひとだなと思ったよ」
なんだかずれた解答のように思えたけど、あさひがそう思ってくれたなら、それでいいと思った。
翌朝、リズムよく鳴る包丁の音に目を覚ますと、あさひが台所でご飯を作っていた。
「おはよう」
「おはよう」
照れ臭さがあるかと思ったけど、自然に挨拶をかわせた。意外と、大したことないものなんだなと拍子抜けした。
「眠そうな顔して。顔洗って、お布団干しといて」
「はいはい」
包丁を手にした女性に逆らってはいけない。
僕はそそくさと顔を洗い、狭いベランダに布団を干した。朝からよく晴れていて、何もかもがいい方向に向かいそうな、朝の日ざしだった。
「そう言えば、あさひの布団は干したにおいがするね」
あさひお手製の朝ごはんを食べながら言うと、あさひは玉子焼きを飲み込んで答えた。
「天気がいい日にはお布団を干すようにしているもの。昼間なにか嫌なことがあっても、おひさまのにおいがするお布団で寝れたら、いい夢が見られそうでしょう」
嫌なこと。いつもにこにこしている印象のあさひにも、そう思うことがあるのだと思って驚いた。
そしてそう思うと、あさひがもっと身近に感じられて、嬉しく、愛しくなった。
「どうしたの、にやしやして」
「ううん、なんでもない。僕も布団を干そうかなと思っただけ」
「うん、そうしよ。きっといい夢が見られるし、ぐっすり眠れるよ」
にっこりと笑うあさひに、僕も自然と笑みを返していた。

一緒に暮らすようになり、家族が増えても、あさひは隙あらば布団を干した。
おっきい布団に挟まれて揺れる、ちいさな布団を見ながら、あさひはしあわせそうに微笑んだ。
「いつか一志のお布団も、私たちと同じ大きさになって、そのうち勝手に干したりしたら、怒られるようになるのかなあ。勝手に部屋に入んなよ、って」
そうなるのが待ち遠しいような、でもちょっとさみしいような声で、あさひは言った。
そのすべてを、一緒に見届けたかったのに。
新しい布団を選んで、思春期の一志に頭を悩ませ、巣立ちを見送る。何度も布団を干して、吸い込んだ汗も涙も乾かして、部屋はもう違うかもしれないけど、おなじ家でぐっすりと眠る。
そんな未来が、明日の朝も、太陽がのぼるように、当たり前におとずれると思っていたものが、なくなってしまうなんて。
突然の喪失に、一志は赤ちゃんにもどったかのように泣きはらし、僕は機械のように、ひとひとりを送る手続きをこなした。
悲しすぎても、涙は流れないものだと、初めて知った。

一年が経った今でも、一志はいきなり泣き出し、ママを呼ぶ。力一杯呼べば、帰ってきてくれると信じているかのように。
僕も胸にぽっかり穴が空いたような、自分が自分じゃないような感覚を抱えながら、日々をやり過ごしている。
からっぽの人形が、誰かに操られて、道を歩かされているような感覚。毎日毎日、同じ景色がフィルムみたいに流れ続ける。
一志はすねるのにも疲れたのか、あさひが使っていたクッションに丸くなって眠っている。もうほとんどにおいは残っていないが、そうしていると落ち着くのだろう。
一志を起こさないように、本でも読もんで過ごそうかと寝室に取りにいった。
雨の季節とは言え、カーテンを開けていてもどこかどんよりしている気がする。あさひがいるときは、そんなことなかったのに。
「ああ、そうか」
押入にしまわず、畳の上に敷きっぱなしの布団。あさひなら朝起きたときに、いの一番に干すか、畳んで押入にしまうのに。
そう思うと、ほほを水滴がつーっと滑り落ち、がくっと布団に膝をついていた。
いけない、なんでこんな、急に。
止めようとしても止まらず、どしゃ降りの雨のようにぼろぼろとこぼれ落ち、敷きっぱなしの布団に吸い込まれていく。
どうしようもなくもれてしまう声を、布団に顔を押し当てて抑える。
どうして。どうして、あさひが。
ずっと一緒に、生きていくはずだったのに。一志の成長を、そばで並んで、見守るはずだったのに。
どうして、どうして、どうして。
布団に強く顔を押しつけると、ふと、懐かしいにおいがした。
生き物のようにあたたかく、やさしく、なにもかも包み込むようなにおい。おひさまの、あさひの、におい。
何かを感じて窓を見ると、雲の隙間から光がさし込み、みるみる間に青空が広がっていく。まるで新しい空が生まれたかのような光景に、僕は息をのんだ。
「きっといい夢が見られるし、ぐっすり眠れるよ」
あさひの声が聞こえた気がして、僕はうなずいた。
「そうだね。布団、干さなきゃ」
そう呟くと、遠いあのひとが、にっこり笑ってくれたような気がした。
今夜は君の夢が、見られそうだ。きっと、家族みんなそろって、おひさまのにおいがするお布団で、眠る夢を。