みそ(業務用)の日記

2019年01月26日 21時31分

もみじ

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夕暮れはもう思いのほか寒くて、ひらひらと揺れるカーディガンを秋風から身を守るようにかき合わせた。彼がよく似合うと誉めてくれたから、お気に入りになったワインレッドのカーディガン。しかしもう着ることはないだろう。
ほんの数分前まで私たちは恋人どうしだった。一年の間にそれなりに強く結び付いたと思っていたその関係は、スポンジでも切るようにあっさり断たれた。
「そんなの無理に決まっているだろ。馬鹿じゃないのか」
今勤めているパン屋を辞めて自分のお店を開こうと考えてると伝えたら、鼻で笑われた。そりゃ少しは応援してほしいと思ってもいたけど、ただ話を聞いてほしいだけだった。
それがのっけから馬鹿呼ばわりされたら後はもう売り言葉に買い言葉。過去のあれやこれやまでを引っ張り出しての言い争いは激しくなり、自分を抑えることができなかった。たまたま入った喫茶店ですっかり注目を集めた頃には、なんの後腐れもなく別れ話はまとまっていた。
そういう事情で彼と来る予定だった、紅葉の名所として知られる公園をひとりで歩いていた。紅葉の盛りとあってカップルや家族連れが多く、その誰もがしあわせそうに見えてこころまで寒くなる。
結婚まで考えていた相手ではないが、それにしてもひとりで店を開くのかと思うとなかなか心細い。ここで諦めて、彼に泣きついてよりを戻すというのもありなのか。
想像すると、それ見たことかとせせら笑う彼の顔が脳裏に浮かび、ひとりでもやり遂げてやらあとむしろ闘志が沸いた。自分にこんな勝ち気な面があったなんて驚きだ。他人との付き合いは自分も知らない自分を引き出してくれる。
「いいんだか悪いんだか…」
呟いて苦笑いしてしまう。
しかしそうと決めたらやるべきことは山積みだ。早く帰ろう。

立ち止まって踵を返すと、遊歩道の端に集められていた落ち葉の山ががさがさと揺れた。なんだなんだと思って見ていると、山からくすんだ茶色をした何かが出てきた。
周囲を警戒するように尖った耳に短い手足。長い尻尾は落ち込んだようにだらりと垂れている。
「猫…」
私は猫が特別好きな方ではない。そりゃかわいいとは思うけど、色めき立ったりはしない。だけど痩せ細って怯えているその猫を見ると、なぜだろう、放っておけないと思った。
ひょっとしたらひとりぼっちになってしまった自分とこの猫を、重ね合わせているのかもしれない。そう思ったけど気がついたらしゃがみこみ、猫にそっと手を伸ばしていた。
この手に触れてくれたら、この子を連れて帰ってしまおう。
猫は私の顔を見ては目をそらし、そろりそろりと何かを探るように一歩ずつ近づいてきた。どこか遠くでチャイムが鳴っても、猫は私にだけ注意を払っていた。私と猫の間には耳には聞こえない会話を交わしているような、濃密な時間が流れていた。
やがて少し手を伸ばせば触れられる距離まで猫が近づき、歩みを止めた。私は手を伸ばしたくなる衝動を必死に抑えた。手を伸ばしてしまったらきっと、この子は逃げ出してしまう。
息をするのも忘れるような一瞬の後、猫は私の手に静かに鼻をこすりつけた。遠慮がちでも確かに、この子から触れてくれた。
「ありがとう…」
囁くような声で言うと、猫は安心したように小さく鳴いてからだをこすりつけた。驚かさないようにそっと抱き上げると、枯れ葉のように軽く骨ばった感触がした。それでもからだはあたたかく、とくんとくんと命の鼓動が手のひらに伝わってきて、泣きそうになった。
潤んだ目をごまかすように、猫の頭にちょこんと乗った葉っぱをつまんで取ってあげた。
「紅葉か…。そうだ、あなたの名前はもみじなんてどう。私は楓っていう名前だから、姉妹みたいで嬉しいんだけど」
もみじはそれでいいよと言うようにふみゃあと鳴いて、カーディガンに鼻をすりよせた。すると感触が気に入ったのか、ご機嫌そうに前足でふにふにといじくりだした。
「気に入ったのならあなたにあげる。私はもう、着ないから」
小さな家族を抱きながら歩く秋の道は、揺らめく夕陽に照らされていた。秋がくれた出会いは少しだけ切なく、あたたかかった。