みそ(鳩胸)の日記

2018年09月30日 22時00分

さくらのあんパン 前編

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東京行きの新幹線の席に座るといよいよ生まれ育った町を離れる実感が沸いた。窓の外を流れる景色は驚くほど速く私を故郷から遠ざけていく。
あんなに憧れていた東京での大学生活への第一歩を踏み出している。それなのにぶ厚い暗雲の前にひとりぼっちで立ち尽くしているような、漠然とした不安に包まれているのはなぜだろう。
気を紛らわそうと早送りの映像のように流れていく景色のどこかに、自分の家が見えないか目をこらして探してみる。
町のパン屋さんである我が家は朝早くから開店の準備に賑やかで、家からひとの気配が途絶えることはなかった。私も放課後や休みの日にはお店を手伝い、常連さんとおしゃべりを楽しんだりしていた。
そんな日常から遠ざかり、誰も自分のことを知らない街へ行く。そう思うと冷えた手で首筋を撫でられたようにぞくりとした。
タイミング悪く新幹線がトンネルに入る。ごおおおという空気を裂く音が大きく響いて心細さをあおられた。暗い窓に映った顔は不安に曇り、新しい生活への希望など見てとれなかった。
しっかりしなきゃとぎゅっと手を握ると、膝の上に乗せた紙袋が乾いた音を立てた。朝、いつものようにパンを焼いていたお父さんが「長時間の移動だ。お前は途中でお腹が空くだろうから、新幹線で食べなさい」とぶっきらぼうに渡してくれた紙袋。
お父さんの不器用な気遣いに驚きながら「ありがとう」と言ったときには、もう背中を向けてパンを捏ねていた。子どもの頃から見てきた背中が、ひとまわり小さく見えてせつなくなった。大きいけれど小さな背中に深く頭を下げると、これまでのことを思い出して涙がこぼれそうになった。
紙袋の中にはうちの看板商品のあんパンと紙パックの牛乳。あんパンには牛乳をかかせない私の好みをよくわかってくれていて、くすぐったいような気持ちになった。
「いただきます」
周りをはばかり小さな声で言って手を合わせる。大きな口でかぶりつくと慣れ親しんだつぶあんの味。
「ん?」
この少し塩辛い味はなんだろう。まじまじとあんパンの断面を見ると、あんこにピンクのなにかが混じっていた。
今度は舌に神経を集中させて味わってみる。あまじょっぱさの後に鼻を抜けていくどこか懐かしい香り。
思い出せずに首を捻りながら牛乳を取ると、紙袋の底にかわいらしい兎の絵の封筒が隠れていた。これはお母さんの趣味だなと微笑ましく思って、さっき別れたばかりなのにもう会いたくなってしまう。駅のホームで握った手のあたたかさが恋しい。