2017年12月29日 19時34分
天使のはしご
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鈍い灰色の空を見上げる。空を見てセンチメンタルに浸れるほど子どもじゃないけど、そうせずにはいられなかった。
年の瀬も迫る師走、立て続けに嫌なことが起こった。両親の熟年離婚、上司のミスを押し付けられ連日の残業。そして極めつけにはクリスマスを前に、三年付き合った彼の浮気が発覚した。
一度も染めたことがない、おばあちゃん譲りの自慢の黒髪を、綺麗だと言って優しく撫でてくれた彼。
他人ごとだったら、三年目の浮気なんて古い歌じゃあるまいしと笑えるが、我が身にふりかかるとまったく笑えない。
怒りと悲しみとむなしさと、もういろいろなものがごちゃ混ぜになって、しばらく塞ぎこんでいたくなった。
しかし現実は厳しくて、とても塞ぎこむ暇などなく、仕事に追われて息つく暇すらなかった。一段落した今にして思えば、深く落ち込む暇がなくてよかったのかもしれない。
そうなっていたらもう、立ち直れなかったような気がしてならない。
こうして、とりあえずの問題を乗り越えて獲得した休日。彼との思い出が多く残る部屋にいるのは耐え難くて、私は近所にある公園のベンチに腰掛け、空を見上げていた。なんとなく、近くを見ていたくなかった。
寒々とした景色が広がる冬の公園に人気はなく、時たま犬の散歩やランニングをする人が通りかかるくらいだった。
仕事に、恋に疲れた30を手前にした女が空を見上げるのに、これほど適した場所はないだろう。
まったく人気がないわけではないが、さして関心は向けられない。ひとりになりたくないけど人混みにはいたくない、今の私にはぴったりの場所と言えるだろう。
ただ無心に、遠くにある空を見つめる。触れられないから、安心して見つめていられた。
灰色の空を、名前も知らない二羽の鳥が寄り添うように飛んでいる。きっとつがいなのだろう。
付かず離れず、踊るようにして空に優美な曲線を描いていく。あの鳥たちは、そうすることで互いの想いを伝えあっているのだろうか。
なんにも縛られないそのうつくしい姿を見ていたら、涙が流れた。
周囲の身勝手にさんざん振り回されたせいか。誰の手にも触れられず、望むままに高みを舞う鳥たちを心底から羨ましく思った。無垢な少女のように。
まだ少女だった私はこんな未来を想像していなかっただろう。
大人になれば誰もが華やかに着飾って、素敵な男性と恋に落ち、幸せな家庭を築ける。そんな夢物語をなんの疑いもなく信じていた。
しかし現実には残業続きで肌は荒れ自慢の黒髪も艶を失い、彼は若い女と浮気をし、両親はあっさりと離婚した。
信じていた、いや、信じていたかったものすべてに裏切られた気分だ。この先こころから信じられるものなんてもう、なにひとつ手に入れられないような気がする。
そう思うと、とめどもなく涙が流れた。
「泣いているの?」
ガラス玉のように澄んだ声に、顔を隠すようにして涙をぬぐった。前を見ると、妙に古くさい格好をした少女が立っていた。
一片の曇りもない夜のような艶をたたえた黒髪に、きりっとした意思の強そうな目鼻立ち。どこかで見た覚えがあるような気がしたけど、思い出せない。
まじまじと見つめてしまったからだろうか、不思議そうに首を傾げる少女に慌てて声をかけた。
「大丈夫、もう泣き止んだから。こう見えてもお姉さんは強いんだよ」
無理やり笑顔を作ったが、まっすぐな瞳に見据えられて取り繕うのをやめた。なぜだかこの少女に、偽りは通じないように思えた。
「ううん、本当は強くなんかない。昔から変わらない、泣き虫のまんまだ。泣いて、落ち込んで、それでも強がりでなんとか立っているだけ」
しまった、子ども相手になにを言っているんだろう。大の大人が情けない。
「なんてね、パパやママは」
どこにいるの、と続けようとしたが少女の声に遮られた。
「泣いていいんだよ」
「えっ?」
「自分のために泣けるのは、あなたのこころがそこにあるから。痛がって、苦しんで、それでも生きようとしているあなたのこころが、そこにあるから」
少女がすべてを包み込むような、優しい微笑みを浮かべる。
「そんなあなたのこころをわかって、あなたのために泣いてあげられるのは、あなただけ。だから、泣いていいんだよ」
ひだまりのようなあたたかさのこもったその言葉に、抑え込んだ涙が溢れだした。
少女に見られているとわかっていても、止められなかった。まるで泣き虫とからかわれていた、幼い頃に戻ったかのように。
ようやく涙が引いてきたころ、ふいに少女が空を指差した。
「ほら、見て」
少女の指先を見ると、ぶ厚い灰色の雲の隙間から差し込む、まばゆい一筋の光。まるで希望のような、きらきらとした輝きを放っている。
「天使のはしごって言うの」
「天使のはしご…」
遠い昔に、誰かから聞いた覚えがある。あれは、誰からだったのだろう。
「そう、天使のはしご。あの光は神様やあなたを想う人が、いつもあなたを見守っていますよ、っていう祝福のサイン。見る人すべてを祝福してくれる、しあわせの光。あなたの名前にこめられた意味みたいにね」
そうだ、思いだした。この話を、天使のはしごを私に教えてくれたのは。
「おばあちゃん…!」
少女がいたところには、ただ柔らかな光が差し込むだけだった。最初から誰も、そこにはいなかったかのように。
そうか、今日はおばあちゃんの命日だ。
泣き虫だった私を気にかけて、時に厳しくも、愛に満ちた優しさで、いろんなことを教えてくれたおばあちゃん。
まだまだ泣き虫な私を心配して、会いにきてくれたのだろうか。
「ありがとう、おばあちゃん」
まだもうちょっとだけ、強がっていられそうだよ。