2017年09月30日 22時17分
発酵探偵ミソーン 総集編 中編
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最初の頃は、美味い話にはなにか裏があるのではないか、と疑ったが先代のことを知るうちにそれは杞憂だとわかった。
「いつの世も人を動かすのは仁義だ。捨てられた猫みたいだったお前さんを放っておくのは俺の仁義に反した。だから助けた。まあ、こんな貧乏事務所に拾っておいて助けた、なんて言うのはちとおこがましいか」
先代はうははと豪快に笑った。鍛え抜かれた刃のように整った顔立ちをした人だったが、笑うと途端にいたずらっ子みたいな愛嬌が出てくる。先代が笑うと俺まで釣られて笑っちまって、それを見た先代は満足そうに頷いていたっけか。
まったく、煮ても焼いても食えない爺さんってのはあいつのことだな。それから俺はあの日までの何年かを先代とともに過ごし、なんとか探偵として一人立ちできるまでになった。
「お前もだいぶ煮ても焼いても食えなさそうになってきたな」
マスターがにやにやとしながらぷかりと煙草をふかした。店の中もマスターも昔から変わっていねえな。いや、カウンター越しに見える白髪は増えているな。
「まさか、俺なんてまだまだひよっこもいいとこだよ。先代には遠く及ばないさ」
「そりゃそうだ。お前と先代とでは重ねてきた経験がまるで違うからな」
まったく、遠慮なく言ってくれるねえ。
「しかしその獲物を狙う猫のように鋭い目は先代にそっくりだな。なんの情報を求めてきたんだ?」
マスターは一流の居酒屋店主というだけでなく、一流の情報屋でもある。いつの間にか頑固なマスターの顔はなりを潜め、街の裏を知り尽くす情報屋としてのどこか影がある顔つきになっていた。
その情報源はマスター唯一の親友であった先代でさえも知らず、墓の下まで持っていくつもりらしい。まったく、俺に教えてくれりゃあ探偵なんていうヤクザな仕事をしなくてすむってのにねえ。
「さすが、よくわかっていらっしゃる」
「世辞はいい。わざわざワシのところにまで来たんだ、先代に関係することなんだろう」
はよ言えと厳しい目を向けられる。
「半年前にオープンした、たらふく亭っていう焼き肉屋はわかるかい?」
「ああ、憎い商売敵だな」
かけらも思ってないくせにぬけぬけと言いやがる。この店なんてだいたい常連しか来ないだろうに。
「あの店、ひょっとしたら越後屋と関係があるんじゃないかと思ってな。なにか掴んでいやしないかい?」
マスターの表情が消えて、寒くもないのに震えが走るような気配が伝わってきた。おっと、こいつは当たりかな。
「お前、まだ越後屋のことを追っていたのか。先代はお前に、越後屋とは関わるな、と言い残したはずだぞ」
虎の唸りにも似た低く響く声に怖じ気づきそうになるが、ここで引いては男が廃るってもんだ。
「受けた依頼の都合上、たらふく亭に潜入しなければならなくなったもんでな。もしも越後屋が絡んでいるなら、用心にこしたことはないだろ」
「どうせいつもの浮気調査なんだろ。それなら店に潜入しなくてもできる。違うか?」
やっぱりそう言われるか。あずきと違ってマスターは甘くないな。
「ああ、確かにそうだよ。だけどもだ。俺は越後屋に繋がる糸があるなら、どうしてもそれを辿らなければならない。たとえ先代の言いつけを破ることになっても、だ。それが俺の先代に対する仁義なんだよ」
眼力だけで人を殺せそうなほど尖ったマスターの視線をなんとか受けとめる。マスターが大きく息を吸い込みいよいよ爆発するかと身構えたが、盛大にため息をついただけで拍子抜けしちまった。
「まったく、お前ら師弟はなんでこうも似てくるんだか。1つだけ聞かせろ。お前は復讐のために越後屋を追うのか?」
「それもあるが、それ以上に越後屋を放っておけない。奴らのせいで不幸になる人たちをもう見たくねえんだ」
マスターはそうかと呟くと静かに頷いて、壁に掛けられた写真を見た。それは若かりし頃のマスターに先代、そして先代の奥さんが写った写真だった。
やんちゃそうな野郎二人に挟まれて、紫陽花のように華やかで優しげな微笑みを浮かべる女性。越後屋の手にかかり、紫陽花は儚く散ってしまった。
越後屋は不動産業を中心に飲食店などの店舗経営にまで幅広く手を広げ、環境問題にも取り組むクリーンな大企業。表向きにはそう知られている。
ところがどっこい。性格がいい美人になかなかお目にかかれないように、クリーンなだけの大企業なんてのもなかなかお目にかかれない。
越後屋は裏で反社会的な組織と密接な繋がりがあり、かなり悪どい儲けかたをしていた。奴らに泣かされた人は相当な数になることだろう。まったく、憎まれっ子世にはばかるとはこのことかね。
先代の幼なじみであり奥さんとなった、マリアさんはそうとは知らずに越後屋と関わりを持っちまった。
このときはまだ、先代も越後屋について深く知らずに止められなかった。先代はずっと悔やみ続けていたな。
マリアさんはあの偉大なる味噌職人ジョン=コージー博士の一人娘で、父が完成させられなかった万能味噌『美味噌』の研究に励んでいた。
コージー博士の晩年は何かに取り憑かれたかのように、美味噌の開発に日夜没頭していたという。
「これが完成すれば皆が美味しいものを食べて、幸せになれるはずだ」
さかんにそう言っていたらしい。子どものように純粋なことだが、コージー博士は美味噌に人々の幸せなんていう大層な願いを込めていた。味噌は人の幸せのためにのみある、を座右の銘にしていたコージー博士らしいことだ。
そして死の間際に「必ず美味噌を完成させてくれ」と娘であるマリアさんに託した。父の遺志をマリアさんは受け継ぎ、美味噌の開発に人生を捧げた。
美味噌はこれまでの味噌とは根本的に違う性質をもち「えもいわれぬ芳醇な香りを発し、これをつけたものはあらゆるものに勝る美味になる」というまさに奇跡の味噌だ。
コージー博士とマリアさん、二人の天才的な頭脳により長い年月を経てその旨味の理論は完成した。あとは理論を実践し、美味噌を完成させるだけだったのだが、ひとつ大きな問題があった。
研究費用が底を尽きようとしていたのだ。
すでにマリアさんの夫であった先代は、腕はいいが稼ぎの悪いしがない探偵。頼れる親類もいないしどうしたものか、と思っていたところにやつらがあらわれた。そう、越後屋だ。まったく、ハイエナ並みに鼻がきくやつらだぜ。
越後屋はコージー博士の偉業を称えて、その遺志を継いで研究に励むあなたに是非とも協力させてほしい、と聞こえのいい言葉を並べ立ててスポンサーとなった。
先代は美味すぎる話を疑ったが「これで父の夢を叶えられる」と涙ながらに喜ぶマリアさんを見ると、なにも言えなかったらしい。
密かに越後屋を探り始めた先代だったが時すでに遅し。コージー博士とマリアさんの夢の結晶である、美味噌が完成したのだ。
コージー博士とマリアさん、父娘二代に渡った夢の結晶である美味噌。父娘は美味噌に人々の幸せを託していたが、これにはとんでもない性質が秘められていた。
それは、美味噌を食べたものはたちまちその味の虜になってしまい、ある種の中毒症をひきおこすというものだった。
たかだか味噌にそんな性質を持たせちまうなんて、彼らは本当に天才だったんだな。
使い方次第では人に害をなすものになってしまうかもしれない。そんな美味噌をこのまま世に出すわけにはいかない。
正義感の強かったマリアさんはそう思い、中毒症をひきおこさないように改良しようとした。
しかしそれを見過ごさない連中がいた。越後屋だ。どこまでも鼻のきくやつらだぜ。トリュフでも探した方が儲かるんじゃないのか。