NIMOの日記

2015年03月27日 21時26分

「ライプニッツと結婚」

十七世紀のドイツにゴッドフリート・ライプニッツという哲学者がいた。

彼の哲学はモナドロジー(単子論)と呼ばれ、その主著『単子論』は現在に至るまで西洋哲学の古典として読み継がれているのだが、まぁ正直なところ、その内容はと言えば、現代の視点からは無用の長物と言ってよいしろものである。俺も学生時代に目を通した記憶があるが、冗長かつ難解な記述に読了すら手こずった記憶がある。少なくとも、人にお薦めできるような本ではないということだけは確かだ。

しかし、一方でライプニッツは数学者でもあった。これまで数多くの高校生たちの頭脳を悩ましてきた微分積分学を確立したのも、他ならぬこのライプニッツである(ここには諸説ありニュートンが先に発見していたとする説もある)。ようするにこの御仁、非常に頭のよろしいお方だったわけだ。

さて、ここではそんな俊英ライプニッツにまつわる一つの逸話を紹介したいと思う。有名な話なのでご存知の方も多いかもしれないが、非モテSNSであるこの場に相応しい内容だろうと思うため、書き記してみたい。

逸話のテーマは他でもない、「結婚」である。

上記したようにこのライプニッツという男、稀代のインテリであり、その当時のドイツにおいては知らぬ者のいないセレブリティでもあったのだが、実生活においては非モテだった。

いや、非モテと書くと語弊があるかもしれない。恋愛などに時間を費やすことをよしとせず、ひたすら学問と業務に生きたというのが公平な書き方だろうか。言ってしまえば堅物、対外的にも朴念仁であったという。天才とは孤独なものだ。おそらく、ライプニッツもまた天才ゆえの孤独を生きていたのだろうと想像する。

しかし、そんな彼も50歳の時にある女性に恋をすることになる。この女性がどのような女性であったかは寡聞にして知らないが、研究一筋の学問バカが壮年にして入れあげたほどだから、相当イイ女だったのだろう。ともあれ、ライプニッツは50歳という齢にして初めて、男女問題を真剣に考えることになったのだった。

ところで、ライプニッツの思想は一般に大陸合理主義としてカテゴライズされるのだが、その思想と同様に、ライプニッツ自身もまた極めて合理的な人物であったそうだ。何事もノリや勢いで決断することをよしとせず、数理的な計算のもとに行動する。それがライプニッツの信念であった。

その信念ゆえ、恋に落ちたライプニッツは、その女性と結婚すべきかどうか、簡単に決めることができない。感情に従うならば、今すぐ結婚したい。しかし、そこは合理主義の本家たるライプニッツである。飽くまで理詰めでなければ気がすまない。

そこでライプニッツは結婚した場合に想定される諸々の可能性をプラス、マイナスに分けて箇条書きで書き出すことにした。そして、それらあらゆる可能性を踏まえた上で結婚すべきかいなかを合理的に判断しようとしたのである。

ライプニッツの熟慮の結果はどうだったか。歴史はライプニッツが生涯独身であったと告げている。そう、彼は「結婚しない」という選択肢を選んだのだ。それが当時において最も明晰な知能が導きだした「結婚」についてのアンサーであった。

さて、俺たちはこの逸話から何を学びうるだろうか。

結婚するのはバカだけだ、ということか。もちろん違う。あるいは、それが事実なのだとしても、そのような事実には、ルサンチマンを補強する以上の使い道がない。

では、この逸話から俺たちは何を学ぶべきなのか。

結婚とは、そもそも不合理なものである、ということだ。あるいは、男女関係とはそもそも不合理なものである、ということだ。

考えてみれば当然だろう。一人の相手と交際することになれば、当然、多くのものが失われる。たとえば自由なんてのもそうだし、金銭なんてのもそうだろう。趣味に没頭することもままならなくなるし、あるいは他の異性と熱烈に恋をするチャンスも放棄することになる(男性であれば日常的に恋人のホルモンバランスに配慮し、不可解に揺れ動く気分への対応に汲々とするハメになる、これは並大抵の労力ではない)。

一方、得られるものは何かとなれば、すぐには思いつかない。パっと浮かぶところでは、安心感とか、孤独感の解消とか、いずれも漠然としたものばかり。実利らしい実利と言えば、せいぜい定期的にセックスを行えるパートナーがいる、ということくらいで、これも交際して1年も経てば大抵が倦怠期に入る。

ライプニッツが生きた17世紀であればまだしも、現在は男女のマッチングサービスがかつてなく充実している時代である。一人の異性とだけに関係を限定することは、たしかに不合理だと言えそうだ。

すると、俺たちはそんな不合理な行為はすべきじゃないのか。もちろん、そんなわけはない。そもそも俺たちの欲望は、そうした理屈とは違うところで、その不合理を欲望している。

話が長くなってきたんで纏めると、ようするに俺たちは理屈で恋愛するわけでも、損得で結婚するわけでもないってことだ。勢いやノリ、あるいは「うっかり」といった要素なくしては、男女関係というものは成立しない。

勢いやノリに任せて不合理な行動をする人間は、一般に「無責任」と批判される。しかし、こと男女関係においては、ある種の無責任さが不可欠なのだ。

自分の選択に「責任を取る」ことは大事なことだが、その論理を突き詰めていけば、人はライプニッツのごとき孤独を選択せざるを得なくなる。時にはノリや気分に任せて無責任に行動してみることも重要であり、意外とそうした軽薄さが人生を切り開く契機となるのかもしれない。

その点、世の中を見渡すと、場のノリや空気に逆らわず、不合理な選択をしている無責任な奴ほど、モテている。もし、自分がいま非モテだと感じるなら、あらためて自分が慎重になりすぎていないか、不合理な選択に臆病になりすぎていないか、振り返ってみるのも良いかもしれない。

微分積分の父を、人生における良き反面教師として、生きていきたいものだ。

考え中

「出来ちゃった結婚」が一番羨ましいと僕は思います。

2015年03月28日 00時46分

NIMO

理想的な「うっかり」婚だな。

2015年03月28日 00時57分