インタビュー
人生で1番大変辛かったことは?
2008年8月4日11時40分、河井英里(本名:英理)さん永眠・享年43
これでしょうね。
高校の時にフジ系「ワーズ・ワースの冒険」の「シャ・リオン」で知って以来ずっと追いかけてて、
大学のときに、新作アルバム発売の際に、ある個人の掲示板で生意気にアルバムのレビュー書いたら、
なんとその場に本人が降臨してきて、
数日後のインストアイベントで、本当に本人か確認したら本当に本人で、
それ以来マネージャーさん含めて顔覚えてもらって。
2004年には札幌のライブに行きました。
八戸まで3時間
函館まで3時間
札幌まで3時間
という道程でしたがそこは鉄オタ、あんまり苦にも感じずに。
2003年秋のステージを延期しての札幌ライブ。
その頃には既にガンだったんだよな。
2007年6月、赤坂レッドシアターのライブが自分が見た生前最後のステージ。
よく出口に先回りして出演者を待ち伏せする「出待ち」という行為があるが、
河井さんはよくその逆、つまりステージが終わった後ロビーに先回りして
客を迎えるということをよくやっていた。
最後に交わした言葉は「僕も音楽をやってまして」
この先に続く言葉は、後から自分が行ったときに直接伝えられれば。
同年11月、ARIAのコンサートに出演したのが公式には最後のステージ。
2008年7月12日にライブ、6月10日にチケット発売のアナウンスがあったのだが、
5月末になってライブ中止の報。
その報せが来たときは、
「前にもこんなことあったし、元気になって戻ってくれば」
しかし、オフィシャルの掲示板に
あのマメな本人様のレスがパタっと止んだとなれば、
ちょっと話は変わってくる。
7月も20日が過ぎた頃に、友人に、
「あんまり良くないかもなー」
なんて言ったら、
後になって「あの覚悟を決めたような様子が印象的だった」なんて言われる始末。
やはりその時が近いってことを根拠も無く感じていたんだろう。
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2週間後、河井英里さんが亡くなった。
それから3日後、会社を休んで都内まで告別式に出向く。
扉の向こうには代表曲「シャ・リオン」が鳴っている。
よもやこんな形で聴くことになるとは。
葬儀屋っつーのは言葉の演技を除けば(あるいはそれさえも)どこまでも事務的、
というか、あの手のホールから見える空というのは、どうしてあんなに綺麗なんかね。
そこからというもの、
とにかく1日が長い。
特に最初の1ヶ月は、今までに経験したことが無いような
とんでもなく長い時間が流れた。
空虚だ。
余談だが、告別式が行われた2008年8月7日、
昭和の巨匠・赤塚富士夫氏の告別式と重なっていたのだ。
森田一義氏が弔辞で勧進帳をやってのけた、あの式だ。
仲間数人を集めて「お別れ会」というと後ろ向きなので「ファンの集い」を企画、
委員会は4人だが委員長っぽいことをやって、秋葉原の20人くらいのカフェを貸し切って11月に行った。
その年の年末に追悼盤を2枚出すというのだが、マネージャーさんやレコード会社のご好意により
発売前の音源をお借りしつつ、自分の拙いトークなどで式を進行・運営させてもらいました。
有名人気アーティストで、大きな会場で騒ぐような人ではなく、
あまり大きな組織に属さず、マネージャーも個人で雇って
会場も100人足らずのライブハウスや、
ゲートシティ大崎の吹き抜けアトリウムホールのフリーライブとか、
印象的だったのは2001年だったか02年だったか、
南青山マンダラで年末急遽決まったライブでは、100人くらいのキャパに30人という
それは大変贅沢なステージを見せてくれるなど、
常に近い距離で我々と接してくれていた。
そんな英里さんも亡くなってから間もなく4年。
やっぱり忘れることはなく、
常に心のどこかに居て、
こういう悲しみは、乗り越えるものじゃなくて、
常に傍らに置いておいて、共に生きるものじゃないかなと、
教えてくれてるような気がします、今この瞬間も。