2013年09月12日 04時53分
◆共感→理解では世界が狭くなるだけ。◆
日記よりもフィード重視な感じのするひもぷらですが、
長文厨の私としてはいささか文字数が足りない。
(それにフィードに書いても目障りなだけだろうし。)
というわけで、日記書きました。
「共感する」という言葉は、イメージとしては綺麗な印象がある。
が、共感を判断基準の先に持ってきてから、理解のステップへと進んだ場合、
これは世界が狭くなる可能性が大いにある。
なぜなら、自分の共感する対象しか理解できないからだ。
ということは、自分の中にある共感できる対象の幅だけしか世界を理解できない
ということになる。
しかし、これは順番が逆なのではないだろうか?
もし、共感できるものが全てのモノ・コト・気持ちに及んだ場合は、
ロジック上は全てのモノ・コト・気持ちを理解できることになる。
が、現実はそうではない。
そもそも脳の仕組みとして、
何かを記憶する際には扁桃体で「好き」「嫌い」のフィルターを通した後、
記憶のプロセスに入るので、身体の仕組みからしてこの仮定には落ち度がある。
それに共感しているということは、そもそも自分の中にある何かが反応して
それから理解するのだから、理解できて当然と言える。
自分の中に元々入っているロジックだから。
以上のことを踏まえると、共感から何かを理解しようとすると、
その分だけ理解できない「何か」が残り、それは拒絶反応になるだろう。
そして、それは嫌な「何か」に遭遇するたびにストレスが蓄積していくことになる。
(無論、ストレス自体は消せないし、消してしまおうというのは究極の意味では有り得ない。
例えば、私は蚊やセミなど、虫が大体苦手だが、
これを根源治療的にストレスフリーにするにはこいつらを絶滅しなくてはならないことになるが、
そんなことは現実的ではない。)
こういうプロセスをどこでインストールした(された)のかは調べてみないとわからないが、
このプロセスを経た後の行動は最悪、争いを生む。
チャンネルリモコン戦争、きのこの山・たけのこの里戦争、犬派猫派戦争・・・
と列挙に暇がない。
戦争の火種はいつだって、相手への理解不足なのだ。
というわけで、新しい世界をどんどこ体験したい私としては、
「まず理解する」ということを念頭において、この世界を生きていきたいな
と思いました(小並感)
るしふぁ~
ヒトシキリさん>おやすみ言ったのにありがとうございます!たけのこの里はサクサク感が好きです!
2013年09月12日 04時57分
燕
理解はできるけど納得はいかない。ってのもありますね。
2013年09月12日 04時57分
るしふぁ~
燕さん>ありますねぇ。持ちがついて来ていない状態ですよね。丸め込まれた感があるというか。
2013年09月12日 05時00分
ノーザン21
こんな文章を四行くらいで書けたら、モテると思う。読みづらくて長いよ。
2013年09月12日 16時59分
yoshi@
メッセージを送りました。今回も長いです(笑)。
コメント欄ではやり取りは困難ですね。今日書いてみて分かりました。
2013年09月13日 15時13分