2013年08月29日 23時48分
個性と一般化、及びその弊害(長文注意)
もうすっかり本家・非モテSNSの自分日記輸入業者と化したるしふぁ~です(^q^)
日記漁ってたら、書いたのに公開していないものを掘り出したので、
推敲・編集して投下してみたひと思ひます。
なんか今見るとむちゃくちゃですが。
【ここから↓】
個性と一般化というのは凄くバランスが難しく、相性もあんまりよくない。
一般化というのは全体の中において、共有点の多い部分のことを指していると私は解釈する。
(例えば、数字やこの文を構成している言語、常識なんかが代表例だろう。)
そして、日本の場合は「世間体」「常識」「空気」というものを
異常に重視する傾向にあるように思う。
例えば、何か不満や変わった意見を述べたとしよう。
それに対するレスポンスの常套句は「みんなが~、みんなが~」という主語をつけて、
話は進められることが多い。(抑えつけられる時もあるだろう)
「出る杭は打たれる」なんていうのも潜在的には脅しみたいなもんである。
しかも、常識や空気は変わるのだ。
だが、この言葉を使う場合には、どうやら、一つにまとまった基準があるらしい。
個々の心境(造語です)や状況は、
――例えそれがフクザツな組み合わせでできているに過ぎないとしても――
そのことに対して、テンプレ的にリアクションしたって、それは唯の条件反射みたいなものだろう。
「みんながどう」とかいう外の事情は極論、個人にはどうでもよくて、
その時、本人が求めているものは別のところにあると思う。
今、その瞬間にその人の心が痛がってる時でも、その声は無視され、
そこへさらに探せば見つかるような、選択肢を探すことをする代わりに、
安直なリアクションを積み増す。
それでは、痛みの周りをうろついただけで、中心には一向に近づかないし、
恐らく、霧がかかって近づけもしないだろう。
見ようともしていないから。
「もう少しだから!もう少しの辛抱だから!」で
ズルズルと先延ばしにしていって、結果はどうだったのか?
もう色んなところで悲鳴上げてんじゃないのか?
(これが妄想だったのなら、それは素晴らしいことだ。)
そういう、内なる悲鳴が外の世界にまで影響を及ぼすぐらい溢れ出した時に、
化学的にギャバやセロトニンやらアセチルコリンやらを
補充したところで、それは対症療法でしかないんじゃないだろうか?
(一過性であるならば有効なのかもしれないし、
手法として見限るのも選択肢を狭めることにはなるから、
一概に切り捨てるのもまた暴論だ。)
あるいは酒を飲んで誤魔化すか?
じゃあ、その化学物質の有効期限が切れたら?
また補充すれば、問題は解決されるのか??
恐らくそれは違う。
「根本からの治療」という視点が欠落している。
延々とそれを続けるならば、穴が無数に開いた水道管にガムテープを貼って、
「ここの穴は塞がったね!あ!あっちも漏れてる!」
の繰り返しになりそうである(うまく例えられていないが)
もう一歩手前に選択肢があるのに、そこが軽視されすぎている気がする。
個性を押し出しすぎたら、とんがりすぎて刺さるので避けられ、
一般化に合わせすぎたら、自分の声を抑圧することになる。
これを解決するには果たしてどれだけの作業が必要なのか?
「諦めて済む」というのも、多分実は諦めていない。
こうしてぐるぐるとああでもない、こうでもないが続く。
なにがここまで私を駆り立てるのかはわからないが、
この手の追究については、諦めることはないだろう。