その名は清き泉、枯れない泉

皆さんはこのような経験はないだろうか。人間は神様を自然に求める生き物です。神社や寺に行って祈り山に登って御来光に手を合わす。パワースポットらしき場所に行ってみたくなる。珍しいものを見たくなり拝みたくなる。わたしもその内の一部だと言っても過言ではありません。そして皆さんはおうちに宗教をお持ちの方もいるでしょう。その教えを守ったり守ろうと日々悩むこともあるかもしれません。神様とは一筋縄ではいかないものです。わたしの拝むキリスト教にも教えはあります。それは基本的には偶像を拝んではいけない、占いを信じてはいけない、又占いをしてはいけないといった教えです。なぜかというとこの世界を最初からお創りになった神様をわたしたちは信じていて、その神様は寺や神社にはいなくてつまり、人間が器用に造った物の中には存在しないと教えられ、存在は霊として形にはない目にも見えない触ることもできない神様であると、教えられています。そしてわたしたちは聖書という書物に書かれてある言葉で神様の実体を理解しようとします。今日は日曜日なので、わたしは教会に行きました。そこでモンゴルに宣教師として働いておられる牧師とオンラインで繋がり二次元の礼拝を受けてきました。そこでの牧師の説教に、「御霊はその間何をされていたのでしょうか?」という問いかけがありました。聖書の主に新訳の方でパウロ率いる宣教師集団が意見が割れて分裂寸前になり、バラバラに分断して旅を続ける話を紹介していました。「御霊はその間何をされていたのでしょうか?」そう、まさにわたしたちも生活していて、「ここに神様がいたらどうするかなぁ」と考える時間はやはりあると思います。そこですぐには答えは出ませんよね。わたしたちクリスチャンも困難や煩わしいことに遭遇することはあり、神様は見ることもここぞと手を合わす偶像もなく、触ることもできませんから、一体誰に問いかけりゃいいの的な混乱はしょっちゅうあるのです。すぐに神社に行きお賽銭を投げ鐘を振ることはわたしたちには許されません。そこに神様はいないからです。ですが霊でありながらも神様は生きて働いておられますから、神社に行ったなんて知られようものなら、どんな怒りが待ってるかわかりません。神様はわたしたちのすべてに目を光らせています。だからこそわたしたちは神様が怖いのです。「御霊はその間何をされていたのでしょうか?」この質問の答えは聖書を読み進めていくとわかる場合もあります。聖書に記述はなくても分断されていた兄弟同士が認め合い愛し合う様子が後に描かれていたりします。そのように神様は目に見えない、触れない、怒らせたら怖い存在でも究極的には、わたしたちを愛してくれる存在なのです。わたしはまた長い間聖書から遠ざかっていました。そして孤独でした。わたしは一人暮らしをしていて時々どうしようもない無力感に襲われていました。神様になんにも祈らずお願いもしませんでした。モンゴルの牧師の問いかけが脳裏に宿りわたしは再び聖書を開きました。うっすら孤独ではないように感じました。神様は生きています。そして自分をもっと頼ってほしいとお考えです。なのに、神社や寺には行かずとも精神的には目に見えたり手に触れられる神様を信じようとしているわたしがいました。聖書は生きています。つまり聖書の中の言葉には力があります。悲しくても寂しくても、聖書があれば神様といつでも繋がれます。今日はそれを実感しました。愛しています、皆さんも皆さんの信じる方がどんな方であってもわたしたちが諦めない限り信じ合い励まし合うことは可能です。人と人が実際に会ったりすることが制限されたり、又もともと会ったことはなくてもオンラインで知っていたり、色んな形はありますが、非モテもそんな大事な繋がるツールです。長い文章ここまで読んでくださったあなた、あなたの信じる神様をあなたの思う通りにはできません。でもあなたは誰よりも愛されています。一人一人がかけがえがないからです。わたしもわたしの信じる神の国を信じてやがて有限の命を終えます。その時まで孤独な旅路でも頑張って生きていきます