みそ(業務用)の日記

2021年01月17日 21時11分

ゆきどけ 後編

差し出された水筒の頭を受け取り、湯気をたてるそれをゆっくりと飲む。
「はあ…」
しゃれとかではなく、まさにあたたかさにほっとする。着込んでいても身体の芯は冷えているのだろうか。あたたかいほうじ茶が、喉を伝って身体中に広まっていくのがわかる。
人心地つくと、周囲を見渡す余裕も出てきた。
山の中にぽつんとある、岩の台座に乗っかった、おもちゃの家みたいな小さなお社。その回りは登山者が足を休められるくらいに整備されていて、私たちはそこらの石に腰掛け休憩していた。
「なにが奉られてるの?」
お社の前に置かれた湯飲みにお茶を注ぐおじいちゃんに聞く。ずいぶんと慣れた手つきだ。
近づくと赤い屋根飾りのされたお社の中には、お地蔵様みたいな石がちんまりと座っていた。
「わからん」
「ふうん」
「でも無事を願うのは悪いことではあるまい」
「意外とてきとうだよね」
「年の功さ」
笑って手を合わせるおじいちゃんの隣に並んで腰を落とし、私も手を合わせた。
無事にこの苦行を終えられますように。あとなにか、いい仕事を…。
私がお願いを終えても、おじいちゃんはまだ手を合わせていた。よっぽどのお願いがあるのか、それともこんな時代に向こう見ずなことをする、馬鹿な孫の先行きを心配してか。
ざざっと木の葉がこすれるような音がして、振り向くと木々の間になにかいるのが見えた。
濡れたように滑らかな黒い体毛をしたそれは4本足で立ち、つぶらな瞳でこっちを見ている。ずんぐりむっくりして見えるのは冬毛だからだろうか。
なんにせよ、かわいい。
山に入って初めて、癒しを感じられた瞬間だった。
「ああ、カモシカか」
いつの間にかお願いを終えたおじいちゃんが、声を潜めてつぶやいた。
「あれがカモシカなんだ」
私もそれにならってこそこそささやく。
カモシカはしばらくこちらを見つめると、ふいになにかに呼ばれたかのように身を翻し、木々の間へと消えていった。ずんぐりに見えて軽やかな身のこなし。
「あっ、写真…」
「また登って撮ればいいだろ」
「ええー、でもまた会えるとは限らないじゃん」
「会えるさ。雪が溶けて、実りがやってくれば、必ず」
さらりとそんなことを言う。
「さっ、そんなことより出発するぞ。日が暮れちまう」
で、照れ隠しのような早口でそんなことを続ける。我が祖父ながらかわいいところがある。
「うん、あとどのくらいかかる?」
「もう少しだ」

けっきょくその後も、私はもう少しをひいひい言いながら山頂まで登ったのだった。
ようやくたどり着いた山頂でも、天気は終始どんより曇り、眺望は臨めなかった。それでも達成感で、心は少しだけ軽くなっていた。カモシカ一頭ぶんくらい。
あともう少しすれば、雪も完ぺきに溶けるだろう。そうしたら今度は私からおじいちゃんを誘って、あの山に登ろう。
今度は前よりも素直に、景色を楽しめそうな気がする。
いつもは憂鬱を抱えながら歩く道も、そんなことを思いながらだと少しだけ軽やかに進めた。