みそ(うすしお)の日記

2021年01月16日 21時00分

ゆきどけ 前編

いつの間にか春の香りがまじった風のにおい。それでもまだ風は冷たくて、外に出るにはコートを着込む必要がある。マフラーや手袋は、もうなくても平気なくらい。
改札を抜けて足早に進むひとたちの中には、春らしい淡色のアウターも目につくようになってきた。
季節は淀みなく進んでいく。
遠くに見える山々も、やわらかな陽射しを受けて輝き、雪化粧を落とし始めている。ゆきどけ水の澄んだ流れは野山に染み渡り、やがてそこに緑が芽吹くのだろう。
「そうやって芽吹いた草花も動物の餌になったり、枯れたりして山にかえり、その上に雪が降り積もって、またそのうちとけて、草花が芽吹く。その繰り返しだ」
山登りが趣味だったおじいちゃんは、去年の冬の終わり際に登った山でそんなことを言っていた。いつもは寡黙なおじいちゃんも、山ではどこか詩的なことを口にした。
いや、違う。おじいちゃんが私を山に誘うのは、だいたい私が落ち込んでいるときだったから、きっと元気付けようとしてくれていたのだと思う。

あのときの私は、仕事やそれにまつわる人間関係に膿み疲れて体調を崩してしまい、これはもう無理だと退職して、家でぼーっとしていた。働き始めてから3年の間に抱え込んだ苦悩は、根雪のようにじっとり固まって心を重くしていた。
とは言え家にいても、将来のことという漠然とした不安に襲われたり、なにも言わないけど親の目も気になって落ち着かずにいた。こんなのじゃいけないと、日に日に焦りばかりが募っていた。
何かしなくちゃ、働かなくちゃ。頭ではわかっているのに動けない。一歩前に踏み出そうとすると、重石を付けられたようにからだの動きが鈍くなる。なけなしの自信は日に日にすり減って、自己嫌悪ばかりが肥大する。

そんなある日、ふらりと家に顔を出したおじいちゃんから登山に誘われた。
「もうだいたい雪も溶けただろうし、付き合ってくれんか」
飄々と言われてそうなのかと思い、私はすんなり頷いた。家でだらだらと求職情報を眺めたり、無駄に凝った料理を作るよりはよほど健全なように思えた。
それに山に登ればなにか開けるんじゃないかという、淡い期待もあった。自分探しに海外とかに行くのも、きっと似たような思いからだろう。ここにはいない自分を求めて。
しかし登り始めて一時間も経たないうちに、私は早くも後悔していた。
「軽めの山じゃなかったの…」
日々畑仕事をしているおじいちゃんは私の倍以上生きているくせに、いとも軽々と足を進めていた。そのひとが言う軽めの山は、万年運動不足の私からしたら、エベレストかヒマラヤかと思うくらいにきつかった。
ゆきどけ水が染みた地面はところどころぬかるんで足をとられるし、木の枝に残った雪は狙ったように首筋に落ちてくる。
ゆきどけの山なんて、輝くような景色に満ちているに違いないと思っていた。だけど見えるのは冬枯れした貧相な木と、雪とまじりぬかるんだ地面。木々の隙間から覗くのはどんより曇った空。
思い描いた景観なんてどこにも臨めやしない。
それでもなけなしの意地を振り絞り、がくがくしだした足を進めるが。
「あっ!」
凍りついた地面に足をとられて、情けなく尻餅をついてしまう。おじいちゃんが言うほど雪はとけておらず、残雪の下にはがっちり凍りついた地面が潜んでいた。
「おお、大丈夫か?」
おじいちゃんに引っ張ってもらって、なんとか立たせてもらった。なんて情けない孫。
「もう少し登れば開けた場所に出る。そこで一休みしよう」
それを聞いて、もう下山しようよという言葉を飲み込んだ。もう少しなら、登ってみてもいいかな。
雪と泥が混じったものがついたお尻を叩き、よしっと立ち上がった。
だけどおじいちゃんの言う少しは、私の息が切れるにはじゅうぶんな道のりだった。