2019年12月27日 22時16分
きざし
お義母さんの初七日を終えて、春美は心身ともに疲弊しているように見えた。おそらくここ数日はまともに眠れていない。
早くに父を亡くし、母の手ひとつで育てられた春美にとって、お義母さんの存在はまさにかけがえのないものだった。
それでも春美は気丈に耐えて、これまで涙ひとつこぼしていない。どこか張り詰めているように見えて、それが心配でもある。
俺がお義母さんに会えたのは数えるほどしかないが、元気なうちに会えたのは幸いだった。
「いらっしゃい、よく来たねえ」
顔はそれほど春美に似ていないと思ったけど、笑うと目尻が下がって、ひなたぼっこをしている犬みたいになるのはそっくりだった。
初めて会う俺を、家族でも帰ってきたかのように迎えてくれて、たくさんの料理でもてなしてくれた。
「さっ、たくさん食べてね。この子、料理があまり得意じゃないから困ってるでしょ」
「もう、お母さん!余計なこと言わないでよ!」
「あはは、春美さんが作ってくれる料理、俺はどれも好きだから大丈夫ですよ」
確かに春美の作る料理はとびきり美味しいわけじゃなかった。でも、食べる人のことを考えて、丁寧に作ってくれているのが伝わってくる料理だった。
「あらやだ、ちょっと春美!こんなこと言ってくれるひと、このひとだけだから逃がしちゃだめよ」
「余計なお世話です!まったく、思ったこと全部言うんだから」
ぽんぽんと母娘の言い合いは続いた。
あんな風に誰かと言い合う春美を見たのは初めてで、それが新鮮でおもしろく、同時にちょっとだけ落ち込んだ。春美はまだ、そこまで俺に心を許してくれているわけではないんだと。
「それにしてもお義母さん、料理、どれも美味しいです」
母娘の間に割って入るようで気が引けたが、それだけはどうしても伝えたかった。筑前煮もひじきも唐揚げも、どの料理も絶妙な味付けで、何を食べても本当に美味しかったんだ。
「ありがとう。望さん、ほんと美味しそうに食べてくれるから作りがいがあるわあ」
そんなにがっついていたかなと春美を見ると、ぷいと顔をそらされてしまった。その横顔には、料理があまり得意じゃなくて悪かったわね、と書いてあった。
「美味しいものをたくさん食べて、よく笑ってよく眠る。それだけで人生じゅうぶんだし、幸せなものよ」
にっこり笑うお義母さんには、どんな哲学者も敵わないんじゃないかと思った。
春美は今、よく笑えてもいないし、よく眠れてもいないし、あまり食べられてもいない。それでも、もう少しで夜が明けて、また日常が始まる。これからも長く続いていく、日常が。
「朝ごはん、作るか」
ふと思いついたことを声にしたら、それがとても正しいことのように思えた。俺が作れるものなんてたかがしれているけど、それでも、春美のためになにかできることをしたかった。
今、家にある食材を使って作れるもので、一番元気が出そうなものを。
目につく野菜を洗い、ざくざく刻んでいった。半分の玉ねぎ、ところどころ茶色くなったセロリ、シワがよってきたにんじん、それと丸々一個のかぼちゃ。
全部使うのは大きすぎるかと思ったけど、中途半端な量じゃ元気が出ない気がしてすべて刻んだ。
野菜を刻んでいる間、ずっと春美のことを考えていた。
こけてきた頬。濃くなる隈。愛想笑い意外の笑顔は、もう何日も見ていない。また春美の、笑うと目尻が下がって、ひなたぼっこをする犬みたいになる笑顔が見たい。
その一心で野菜を刻み続けた。
すべての野菜を切り終えると、それらを家にある一番大きな鍋に入れて煮込んだ。どうか美味しくなりますように、また春美の笑顔が見られますようにと願って。
誰かのために料理を作ることは、祈ることと似ていると思った。誰かの笑顔を、幸せを、健やかに生きることを。とどくように信じて、祈ることに。
テーブルの上に置きっぱなしだった食パンにカビは生えていなく、冷蔵庫の中の卵も牛乳もまだ食べられる範囲だった。よかった、これなら数少ないレパートリーのひとつのフレンチトーストも作れる。
バットに卵を割り入れ、牛乳も入れる。砂糖は少し多目に入れた。それを泡立て器で丹念に混ぜて、食パンを浸す。
クリーム色の液に浸される食パンは、涙も悲しみもすべて吸い込んでくれそうに見えた。
さあ、後は春美が起きてくるのを待つだけだ。笑顔はそんなに得意じゃないけど、とびきりの笑顔で迎えてやろう。あの日俺に、お義母さんがそうしてくれたように。
「夢…か…」
まだ希美が生まれる前の、懐かしい夢。希望に満ちた若いころの自分が微笑ましく、羨ましかった。
「春美…」
希美が生まれてからは呼ばなくなった名前。久しぶりに口に出すと、飴玉を転がすような、甘酸っぱい思いが胸いっぱいに広がる。
アラームを止めるためにスマホを操作すると、かけた覚えのない時刻で思わず首をかしげた。
「こんな早い時間に、どうして」
スマホの待ち受け画面には、何も言わずに微笑む春美と、その腕に抱かれる生まれたばかりの希美。
この時に戻れるのなら、俺はなんだってするだろう。思いっきり手を伸ばして、あのやさしいぬくもりに、もう一度触れたい。ひだまりのような時間に、もどりたい。
でも、そんなことはできない。今ここにいる、深く傷ついた希美を放り出せるわけがない。今俺が、希美にしてやれることはなんなのか。
「俺はどうすればいいのかな、春美」
画面を見ながら問いかけるように呟くと、フレンチトーストを食べる、春美の泣き笑いの顔が脳裏に浮かんだ。そうか。
「希美にも作ってやればいいのかな」
俺の言葉に答えるように、画面の中の春美がにっこり笑ったような気がした。窓の外にはいつの間にか、新しい朝のきざしが差していた。