しらはかの日記

2017年03月25日 08時10分

おおかみこどもの雨と雪(ネタバレあり,2012年頃執筆)

 パンフレットに載っていた氷川竜介氏の言葉を引用すると、この作品は生まれながらにして古典な作品である。

 冒頭から引用で始まるなんて失笑物なのだが、それがこの作品を語る上で最も的確だと感じた。
味わい深く、生命力を感じる。
 もちろん瑕疵がないわけではないが、危うさを感じることはあまりない。

 では、何が骨子なのか。この作品は子育てものであって、子育てものではないところが非常に目から鱗であった。

 子育てものの作品は世に多く出回っており、そのほとんどは母となった女性の手によるものだ。「あるある」という共感と、自分の育て方の客観視が可能であるために、メイン読者層は言う迄もなく母親層であろうし、作者側も母親層をメインと捉え作品を作っている。

 大抵の場合は自分を糊塗し、よりよいものとして見せようと努力した少女、娘時代から一皮剥け、生活力があまりない(場合が多い)旦那と、予想外の行動を取る子供、時には嫁姑問題、義父母との確執、職場との関係、行政や学校との対立、ママ友との確執や親同士の関係などを織り交ぜながら、外聞を気にせず、恥をかきすて、孤軍奮闘する「アタシ」がメインで描かれる作品が多い。

 それ自体は良いことだと思うのだが、一男性読者、しかも結婚適齢期を過ぎながら独身だと完全にこのジャンル、門外漢である上にむしろ触れると悲しみを覚えるジャンルなのだ。

 故に子育てものは余程のことが無い限り男性は手を触れない。

 だから、三作目にしてファミリーものとは、勘弁しろよ細田守よ、とぼくは思った。

 しかしながら、その固定観念を突き崩し、独身男性視聴者であってもこの作品は手を差し伸べてくれるすばらしい作品であった。

 ヒロインの花は国立大学に通う苦学生で、「おおかみおとこ」と恋に落ち、妊娠し、子供を産む。それが在学中なので、「おいおい」と思うのだが、実のところ在学中だからこその良さがある。

 それは、花は娘のまま母になり、母になりきらないというところなのだ。いつまでたっても純朴で垢抜けない、けれど一生懸命な苦学生のメンタリティを保ち続けるのだ。

 はっきりとそれはパンフレットにも書かれており、「役割として母を演じるのはやめよう」と花のコンセプトが書かれている。これはとてもとても正解だし、この作品の一番すばらしい箇所だと感じた。

 おおかみおとこは劇中、割とさっさと退場するために感情移入する余地はあまりない。だからこそ花に感情移入していくわけだが、その花が「外聞を気にせず、恥をかきすて、孤軍奮闘する『アタシ』」なら、男性視聴者としては引いてしまう。

 十月十日も自分の肉体の一部として育て、その後も自分の乳をしゃぶらせる母親という存在は、子にもっとも近い存在であり、子育てというステージにおいてはどう足掻いても主役である。

 「子育てに協力してくれない」「私の事を理解してくれない」と世の母親は嘆くのだが、そうは言っても男性、旦那、夫は結局の所サブであり、控えであり、支える立場である。だから母として大きく変容し、また変容せねば対応できない大業であるところの子育てにおいて、男性は一歩引いて見てしまう。どこか他人事に感じてしまうのだ。

 しかし、突然母になることを決め、スイッチが切り替わった後の母というキャラではなく、母という役割、課題に対し、少しずつ取り組む、あくまでも苦学生というメンタリティの花には、当事者意識を抱きやすい。

 その上、その子供が一般的に知られる子供というイキモノではなく、「おおかみこども」という、おおかみであり、こどもでもある不安定な存在であるなら、どうその子育てに取り組むかという課題に対し、どう花が答えを出すのかというのはとても興味深い。

 そして、その上で人であるか、おおかみであるかという道を選ばせるあたりもとても素晴らしい。

 視聴者として、この作品のエンドマークを最初にどこに想定するだろうか。ぼくは、おおかみこどもの雨と雪が、おおかみであるという一面を隠しながらも花の奮戦により、人間社会でたくましく人間として生きていく、そんな話だと思っていた。

 しかし、この作品はそこからさらに何歩も切り込み、人であるか、おおかみであるかを選択させる。

 昔から擬人化、という技法がある。それは本来人語を介さない物、動物などが人語を介し、意志を持って、人間かのように振る舞うことにより、人と意思疎通するという技法だ。

 一般的な技法だが、これは則ち、あらゆるものに「人間であること」「人間性」を見出し、その共有できる感性の中でなら人間として対応できるという、ある種傲慢な考え方である。

 神様も自然の擬人化だし、あらゆるものに勝手に決めた「人間性」を元に、その勝手に決めつけた部分を人間は愛する。

 だから、おおかみおとこは人語を介し、人里においては人として生き、人として格好が良く、人として花に接した。

 おおかみおとこがおおかみおとこであることを明かしても、花が「あなたならいい」と言うのは、あくまでもおおかみおとこのおおかみの部分ではなく、人としての部分がメインとなる「あなた」なら受け入れられるという意味である。

 つまり、花や視聴者の想定は、雨も雪も人として育つことを無意識に想定し、そうであることが自然だと感じているはずなのだ。

 そこを敢えて外してくるのは、物語の力学としては恐ろしく力があると感じるし、古典的なパワーを感じる。

 この作品は男性視聴者ももちろん見に行って得られるものが大きい作品だし、その分母親からは「こんなのはファンタジーだ」「こんな風に上手くいかない」という声が聞こえるだろうな、というのも理解できる。それは先に述べた子育てものとしての体裁はばっさり切り落とされているからだろう。

 ただ、その結果子が育ち、それぞれの道を歩み続けるまでという長いスパンを息切れすることなく、瑞々しく、興味深く、骨太に描ききった監督の力量には感服せざるをえない。

 すばらしい作品だった。