2016年09月18日 18時05分
【第百六十八回「ごんべん」ー銀河万丈読み語りー】感想
もともと演劇関係、コンサート関係にハマった頃、
演目を観た時に
「ちゃんと感じた事を振り返るようにしよう」、
と始めた感想書きだったんです。
で、演劇はCoRich(こりっち)という専用ポータルサイトに
感想投稿欄があるのですが、
その他そういう場所のない演目(映画や朗読会など)について、
書いた感想を自分のPC内のみにメモしとくのもなんなんで、と
非モテ+に日記として投稿するようになってから、
「(もし読んでくれた人がいたとして)いきなり感想だけ書いても元ネタ知る訳ないよな」と
ネタバレ(あらすじ)も書くようにし始めたんです。
しかし、いつの間にか
・ コンサートはKalafinaだけ
しかも、セットリストを覚えないし、
目をつぶって曲に集中するので演出も見ない
僕には書ける感想が少ない。
・ 演劇は色々あって観るのをしばらく中止してます(もうすぐ1年)。
※ 以前は年間100本近くは観てたんじゃないかと。
(月8として)
で、
・ 非モテ+には、基本的に映画なんかのネタバレ上げるだけ
という作業的な行為
が中心になってしまって、演目(映画)観賞中も
「あらすじの理解」の方が優先してしまい、
ちゃんと目の前で展開している内容とその音とを体感/体験する方を
楽しめなくなってきてしまったなあ、
なんか自分の感じる心を押さえつけてしまっているなあ、
と思うように…
そんな風に最近イベントを振り返るごとにに思ってたんで、
「今日こそは」と
出来るだけ後で何書くかとか感想の言葉とかそういう事を何も考えず、
銀河万丈先生の読み語り
(朗読、と言ってしまうのも何か違うような気が)に
聴き入るように集中してみました。
今後もそういう気持ちを大事にしようっと( ´ー`)
今回は珍しく空席が目立ってました。
銀河万丈先生いわく、
「日曜日と祝祭日が重なった場合に祝祭日を月曜に移す
ハッピーマンデー施行以降、
毎月第三日曜日の”ごんべん”と連休の中日が重なる事が増えて、
こういう(人が少ない)事も多くなってしまいましたが、
まあそれでも頑張って行きましょう」との事。
”ごんべん”開催の日にちを変える事も考えた事あるらしいのですが、
・ 第一日曜日だと月始めで忙しい人が多いし、
・ 第四だと季節の変わり目に当たってしまうから演目内容と外れる場合が多いし、
・ (第二だとなんだったか忘れちゃいましたが)
・ 第三日曜日が”ごんべん”としてはベストなんですが、
会社やその他の行事も月後半で落ち着いてくる
第三日曜日って集中するんですよね、と。
※ たしかに今日は自宅裏の神社、代々木八幡、新宿とも
お祭りお神輿その他のイベントでした。
●『旅のハシは食べ捨て』東海林さだお
昔一時期、奥さんや娘がお父さんのパンツを箸でつまんで洗濯機に入れる、
という行為が流行った事がある。
あの箸は誰の箸だったんだろう?
自分の箸だったらまだしも、お父さんの箸だったんだろうか?
また、口に食べ物を入れる箸を使って、
最後にみんな出ていくお尻に関わるパンツをつまむ、
というのもなんとも・・・
というお話から始まり、
ピンセットのように一個(形状)の道具として
ものをつまむのではなく、
2本の棒を両手ではなく片手でつまみ、
更にそれらをうまく動かして
ものをはさみ、つまみしてものを食べる、
お箸というのはすごいなあ、
スプーンやフォークと違ってもうこれは手の延長、
身体の一部と言ってもいいのじゃないかしら?
と。
あと各家族それぞれ各自のマイ箸があるかと思いますが、
フランスその他海外でマイスプーン、マイフォークってないよなあ、
とか
割り箸であっても一度割ったら自分の箸、
料理のとりわけなんかはとりわけ箸を使うし、
「もういいよ、とりわけるのめんどくさいから
みんな直接箸で食べようよ」と言う人がいても
絶対「とりわけ派」との争いが一度は起こるよなあ、
なんて話があって、
最後にお弁当で妙に短い箸がついてる事がありますが、
あれは嫌だなあ、という締め。
? 東海林さんにしては珍しく、タイトルと
内容がちょっとズレてるかも?
(あるいは聴いた内容自分が忘れちゃってるだけかな?)
●『サンドイッチ講釈』東海林さだお
書いてて気づきました、サンドイッチの作者と言われる
サンドイッチ公爵と掛けたタイトルだったんですね。
サンドイッチ、上(横)から見るとただの白いパン、
でも切り口から見ると艶やかな具材とりどりが
美しい食べ物。
最近では一口大の(OLさん向けかな?)真四角サンドイッチも
売ってますがサンドイッチはやっぱり
・ 長方形
・ 三角形
に切られていて、一口かじりついた上で更に
その残った方を切り口から眺められる状態で食べないとダメですよね、
とかそういった東海林さだおさんの講釈が。
あと、最初サンドイッチ公爵の頃はパン2枚の間に
具材を挟んで食べる事で片手でつまめて
その間もカードゲームに興じられる、
というのがウリだったはずが、最近のサンドイッチは
パン3枚で具材をダブルに挟んでいたり、
手探りでどこがサンドイッチの区切りなのか探さなきゃいけなかったりで面倒、
※ 当初、東海林さだお先生は、
パン2枚部分とパン1枚とそれにくっついた具材とで食べてて
「なんか変だぞ?」と思ったとか。
? 本当かなあ??
そんなお話でした。
●『どんぐりと山猫』宮沢賢治
連続読み物(長編大作)はお預けで
今日もまたまた宮沢賢治作品(前回そう言ってました)。
※ 思ったんですが、今日人が少なかった理由の1つは、
銀河万丈先生が前回
「プリズンホテル3冬をやるにも季節が合わないので、
しばらく連続読み物はやらない、
宮沢賢治をいくつか読もうかな」と言ったからじゃないかしら?
あと自分は宮沢賢治の作品がどうも好きになれなくて
その理由を考えてみたんですが、
宮沢賢治作品って当初は
「(亡くなった)妹を喜ばせてやる為に考えた即興の空想話」から
来てるとかなんとか言うお話を聞いた事があります。
そういう意味合いもあって、
摩訶不思議な世界観や展開などの
ファンタジー要素は多分にありつつも、
物語としての構成の巧みさや
波/起伏(人の喜怒哀楽を刺激する部分)を
あまり狙って組み込んでないからなんじゃないかなあ、と。
文調が昭和初期(?)で、古い言葉の書き方だから分かりにくい、
というのもあるんですが、
自分の感情をどこか日常とかけ離れた所(例えば泣いたりとか)へ
連れて行ってくれないのが、
自分が宮沢賢治文学にハマれない理由かなあ、
なんて考えたりしました。
※ この作品を聴いていて。
あらすじは単純で、一郎(だったかな?)の元に山猫から手紙が届く。
山猫「明日裁判を行うので出廷してください」。
で、色々道に迷いつつ山の裁判の場へ行き、その裁判内容が
「どんぐり達が、誰が一番良いどんぐりか?」で言い争っている事を
解決依頼してほしい、との事。
とんがってたり、太かったり、丸かったり、長かったり色々のどれなんだ?と
どんぐり達は言い争いをします。
で、困った山猫が一郎にアドバイスを求めると
一郎「一番ダメなどんぐりで凹んでてどうこうでダメなやつが
一番いいどんぐりです」と言ったら、
どんぐり達がみんな黙り込んでしまった。
※ この黙り込んだ理由部分も説明が不十分で、
この物語の読み手/聞き手には分からないんじゃないかなあ?
で「今後もこういう裁判があったらアドバイザーになってくれ」と言われ、
OKするのですが、以降二度と呼ばれる事はなかった、という終わり。
※ 言っちゃなんですが山なし、オチなし、なんですよね。
目をつぶって、そんな宮沢賢治文学の世界を、
場面表現的には素晴らしい情景の数々を想像しつつ、
数多くの(今回一郎以外人間はいない?)
各相手(栗の木だったり滝だったりどんぐりだったり山猫だったり、
山猫の子分(?これは人間なのかな?)だったりに
それぞれ「声の個性」を与えて演じ分ける、
銀河万丈先生の演じ分けの素晴らしさは十二分に発揮されていました。
その部分を楽しむ、という意味では今後も宮沢賢治でもいいのかな
(ファンタジーな世界観が多く登場人物も多いので)、
とは思いつつ、
やっぱり折角人が行う朗読という読み語り、
文章を黙読するのと違って生の演技で感情をぶつけてくる演目なので、
やっぱり笑ったり泣いたり色々したいよなあ、
そうすると宮沢賢治はパスかなあ、なんて思ってしまいました。
●『玄鳥』藤沢周平
お話自体は長く登場人物も多い(そして名前ほぼ忘れてしまいました)ので、
概要をさらっと。
江戸時代、350石(石”こく”=所有する土地、いわゆる財産、そして給与ですよね)の
武家の家の女房みち。
みちの家は父が玄鳥(げんちょう)流(?)だかの
剣術(兵法)の家でもあり、
かつては父のもとで兄や多くの門下生が剣術の稽古に励んでいました。
しかし、兄が風邪から病(やまい)をこじらせて亡くなってしまい、
跡目(あとめ、確か違う言い方してたかと)を亡くした悲しみから
父も後を追うように亡くなり、家を守る為に外から婿を取った。
で、みちは子供の頃から毎年家の門につばめが巣を作って
子育てをしていくのを眺めて育って来たのですが、
今の旦那は
「武家の家は藩内のどんなお方が来るか分からない、
そんな家の門につばめの巣などあってはならん、撤去しろ!」
と、何十年と眺めた(=同じつばめ一家が毎年巣作りに来ていた)その巣を壊させる。
藩では、「ある武士」が藩内の上役を斬り、
更には仲の良くなかった妻も斬って逃走した、
それに対して3人の追手を放っていた。
「ある武士」は金をそれほど持っていなかった為、
知り合いの商人の家に行くはず、そこを先に待ち伏せて仇討ちをしろ、と。
で、3人の武士が急ぎ商人の家を見張るが、
「ある武士」が数日経ってもなかなか姿を見せないので気が緩み、
酒を飲んだり、寝ていたり、とかなり気が緩んできた所を
「ある武士」にいきなり襲われ
1人は死亡、1人は怪我、1人は無傷、にて江戸に帰ってきた、と。
※ 「ある武士」はこれら全てを見越して逆に3人を見張っていたらしい。
3人の武士の中の1人はかつてみちの家で剣術を学んでいた
ひょうじろう(多分名前間違っています)で、
剣の腕は確かでした。
ひょうじろうの無事を心配するみち。
ひょうじろうは感情豊かで明るく善人でしたが、
みち達の前でだけ、
粗忽者(そこつもの)ぶりを見せてしまっていました。
例.柿の木に登って柿を採って、いざ降りる段、
調子にのって枝に飛び移ったら枝が折れて落ちて
したたか腰をうってみち達に介抱されたり、
門の前の水たまりを飛び越えたら転んでしまい
はかまをビショビショにして困っていたり。
ただし、それは父や兄は知らない、みち達(みちと妹)だけの秘密でした。
そんなひょうじろうに対して、実はみちは重要な用事を父よりことづかっていました。
かつて玄鳥流について、
更なる創意工夫で秘伝「ふうらい(風雷)」という秘奥義を編み出した父。
それを継ぐものこそ家と玄鳥流を継ぐもの、とした矢先兄が亡くなってしまい、
それでは、とひょうじろうに「ふうらい」を伝授しようとしますが
3/4を教えた所で、
父「あれは粗忽者(そこつもの)である!」と伝授を中止してしまいました。
それから父も亡くなり、ひょうじろうは
藩内での争いがあった際、要人の警護をするのですが、
(許可を取って)そばを食いに行っているすきに
要人を斬られてしまう、というまたも粗忽な失敗をおかし、
藩からはやっかいもの扱いされていました。
そして、今回の「ある武士」への仇討ちの失敗、
ひょうじろうは商人の家を見張っていて、
残り2人の武士が帯刀もせず宿で休んでいる所を斬られ、
それを後から戻ってきたひょうじろうが見つけた、
との事。
ひょうじろうに責任があるかどうかはともかく、
まず帯刀もせずに斬られて死んだ武士の家は
「武士の恥」として石(こく)を減らされてしまいます。
それに怒った死んだ武士の家は、
「ある武士を見張りもせずに持ち場を離れたひょうじろうが
なぜ無傷でなんのお咎めもない!」と江戸の殿に訴え出ます。
そして、ひょうじろうはしばらく江戸所払い(江戸から追い出される)、
という事になったのですが、
みちの旦那から聞かされた事実はこれとは異なりました。
旦那「ひょうじろうにも追手が放たれる、ひょうじろうも仇討ちされるのだ」
※ たしか「仇討ち」じゃない言葉だったはずです。
忘れてしまいましたが・・・
いくらなんでもそんな不条理な!、とみちは
ひょうじろうの元を訪れ、父が今際の際に言った
「ふうらいについて、ひょうじろうには4のうち3は伝えてある、
後は口伝でお前(みち)が伝えろ。
ひょうじろうの身に危険が迫った時に・・・」
そうしてみちはひょうじろうに「ふうらい」の残り1/4を
口伝(言葉)で伝えます。
そして・・・
父の最後の言葉をひょうじろうに伝え、
門のツバメの巣も撤去され、
みちの中で
ずっと思い出として残っていた過去の家のなごりが
全て終わりを告げたのだな、という気持ちになりました・・・
※ そこへかつて幼少時代みちとその妹が
ひょうじろうの妻になる事にあこがれていたお話が
差し込まれ。
でおしまし。
藤沢周平さんらしくなく、めずらしく「秘奥義」とか
剣術チックな話を進めて来ましたが、
結局その「ふうらい」なる技でひょうじろうが生き残れたのかどうかなど
その辺は語られませんでしたね。
鬼平犯科帳を書いてる人(誰でしたっけ?池波正太郎?)なら、
きっとかっこよく仕上げたんだろうけど、
その辺、女性の気持ちの方を汲んだ物語にするのは、
藤沢周平さんならでは、なのかなあ。
まあ、かっこよさはなかったですが、
玄鳥流、秘奥義、ふうらい、など剣術チックなお話もあり、
また淡い過去の恋心のお話もあり、で
それなりに心の琴線に触れるようなお話でしたね( ´ー`)
まあ、僕は早く銀河万丈先生のかっこいい剣劇話なんかを
聴きたいですけど。
※ もう2年以上池波正太郎?さんとかやってないと思うなあ・・・