NIMOの日記

2015年03月27日 00時19分

「徒然なるままに、こじれ論」其の壱

現代は童貞受難の時代である、とはジェンダー論の研究者である渋谷知美氏の言葉だ。
言われてみれば確かにそうなのかもしれない。現在、童貞という言葉には、何か言い知れぬ呪力がある。まるでそう名指される事で人格全体が否定されるかのような、致死的な破壊力がある。

とはいえ、いつの時代も童貞という言葉にはそれなりに含みがあった。含みの内実として典型的なものは、男として半人前である、といったものだろうか。よって童貞がある種のスティグマであるという事態は、別に現在に限られたことではない。ただし、渋谷氏によれば、現在、その傾向が特に顕著になってきているとのことなのだ。

しかし、そもそも、童貞であることは本当に揶揄されるべきようなことなのだろうか。あるいは、童貞であることが恥とされる一定年齢というのがあるのだとしたら、それは何歳なのだろうか。

実はこうした問いに意味はない。答えは明白だ。童貞それ自体は揶揄されるべきことでもなければ、年齢における区切りもまた自明なものとして存在しはしない。なぜなら、「童貞」とは、ただの「状態」を指し示す言葉に過ぎないからだ。ある一つの状態について、多様な背景を顧慮することなく十把一絡げに難じることは正当性を欠く。言うまでもないことだ。

しかし、一方でおれは童貞に対して極めて辛辣だ。否、正確には童貞を“こじらせ”ているやつに対して、俺は強く批判的なのだ。

なぜか。その理由を説明する前に、童貞を“こじらせる”とは一体いかなる事態をさすのか、ということについて言及しておく必要がある。

そこで、まずはあらかじめ、“こじれ”なる状態について、暫定的な定義を試みておこう。むろん、あくまで俺個人の定義だ。それは、以下のようなものになる。

“こじれ”とは自分の欲望が分からなくなることである。あるいは、自分の欲望を忘却することである。

もちろん、唐突にこのような定義をされてみても、意味が分からないはずだ。
順を追って、まずは起源にさかのぼって考えてみることにしよう。つまり、“こじれ”とは、いかにして発生するのか、だ。

例えば、今、君が中学生だと仮定しよう。君は童貞で、なおかつ女子とまともに会話したことさえない。当然、交際経験もない。
だが、君には片思いの女子がいる。学年のマドンナのA子ちゃんだ。大して会話もしたことないけど、いつも遠目から彼女の姿を追っている。処女性を象徴するかのような黒髪を風にたなびかせているA子ちゃんの姿は、君にとってあたかも天使のように崇高だ。
しかしある日、同級生からある衝撃的な真実が告げられた。A子ちゃんには実は交際相手がいて、すでに処女ではないということ。さらに、その交際相手は目立つ事の他に能のない不良同級生Bであるということ。これを聞いて、君は愕然とする。そして、この時、君が今後「こじれ」ることになるか否かが計られることになる。

もし、君が「Bのやつ、いいな。俺もA子ちゃんとヤリてぇよ。Bのまねして髪の毛とか染めてみよっかな」となるなら、君は欲望に素直な人間として、おそらくは健全に生きていくことになるだろう。そのメンタリティである限り、そう遠くない未来において君は自然と童貞も捨てることになるに違いない。

一方、君が「あんなバカ男と付き合うだなんて幻滅だな、見た目は可愛いけどただのビッチじゃないか、もう俺はあんな女に興味はないね」となった場合、これは要注意だ。なぜなら、ここにこそ“こじれ”の起源があるからだ。

欲望の力学は本来なら垂直に働くものだ。欲望対象があり、欲望者がいる。そこは直線で繋がれる。光線と同様だ。

しかし、そこに他の変数が加わることによって、つまり欲望と欲望対象の間に遮蔽物が加わることによって、直線であった欲望はただちに乱反射をはじめる。その変数となるのは、プライドであったり、臆病風であったり、様々だ。要するに、自分の果たせなかった欲望を否定するための、あるいは欲望の頓挫を正当化するための何かである。

なぜ、これが“こじれ”に繋がるのか。少なくとも、なぜ俺には、これが“こじれ”の起源だと考えられるのか。

その答えは、また後日書くとする。