しゅれでぃんがーの日記

2014年12月27日 12時10分

宿題の立ち位置

※一部転載

(前略)
家庭学習の習慣とやらも大事なのかもしれないけど、家ではできるだけのんびり楽しく過ごせることや、ストレスのない円満な家庭環境であることのほうが、子どもの成長にとって大事だと思うんだよね。宿題なんて会社の残業みたいなもんで、必要な学習は学校の定時で完結するのが本来の姿じゃないのかな。家庭で学習させたい親は自由にやらせればいいわけだし。
(後略)

http://anond.hatelabo.jp/20141226041111

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■学校の目的、宿題の目的
そもそも、学校と宿題の目的って「生徒の学力を義務教育の標準レベルまで上げる」ことを目的にしてるの?っていう話。
もしそうだとすれば、宿題は一律全員に出すべきじゃなくて、

①テストをやって現在の学力の確認をする
②出来なかった問題に対して対応する宿題をやる
③再テストをして、達成を確認する

っていう感じのプロセスが必要になると思う。
当然、100点の奴は宿題が無い。目標は達成しているのだから当たり前だ。

ロジックとしては違和感を感じないが、どうも感情的な部分でモヤッとする。

■勉強は労働である、という思考
「成果物に対して対価が支払われる」
こういうのって労働者の思考だ。
成果物に対して給与の支払い、という「取引」が行われるという。
その観点では
>宿題なんて会社の残業みたいなもん
という発想になるのも頷ける。

ということは、小学生は勉強という労働をしている、ということか?
なら、対価はなんだろう?
「親からの生活の庇護」
ということだろうか?

■子供に自己責任論は現実的でない
親が子供に勉強させるのは、あくまで「子供の為」であり、扶養の対価として求めているわけではない。
ざっくり言うと
「頭が悪いと現代社会では貧乏になりやすい、貧乏は不幸せだ、よって頭が悪いのは改善しなければならない」
というロジックだ。
個人的にこの手のロジックは大嫌いで、貧乏になる自由もあるし、不幸せになる自由もあると思っている。個人的な例で申し訳ないが、TOEICの点が悪い事で出世の道が断たれても、「英語勉強したくないから給料安くても構わない」という選択肢は大いにアリだと思っている。
ただ、それはメリットデメリットを自分の責任で取捨選択する、出来る年齢の話であって、それが出来ない年齢の子供に対して、大人が自己の価値観で無難なレールを敷くのは、良いとは言えないにせよ、仕方が無いとは思える。

■無理にやらせることが、より勉強嫌いを加速させ、労働寄りになる
当然、嫌がる子供に対して無理やり勉強をさせれば嫌いになるのは当たり前だ。
嫌いな事を無理にやらされていれば、その反動で対価を必要とするのも仕方が無い。
こういう子供が大人になると、宿題は残業、という考えに至る気がする。

大人は、小さい時の勉強の対価が10年後20年後に返ってくる、ということを知っているが、子供としては10年後の事など知ったこっちゃないのだ。
そもそも、10年後に得られる対価が、自分の欲しいものだという保証もない。

■まず、好きになる事から始める
大前提として、勉強が嫌い、という状態をなんとかするべきだと思う。
で、それでも勉強が嫌いなら、子供の責任において勉強しないで生きていく道を選ばせるのもアリじゃないのかな?
実際は、学校の勉強せずに生きていく道は、その職業の勉強が発生するから決して楽ではないのだけれど・・・
誰もが一流大学出てホワイトカラーにならなければならない、それが幸せだ、という思い込みが不幸を量産している気がする。向き不向きは誰だってあるのだ。