P助の日記

2013年07月26日 00時35分

本当のフェミニストは死んだ

タグ: 非モテsns日記転載

思想というものは、突き詰めると啓蒙になる。

土台人間というのは好き勝手生きて死にたい生物である。
だが各々が好き勝手に生きたら当然軋轢が生まれ、それにより不幸になる人間が出てくる。
世界に二人しかいなければどちらかが不幸になっておしまいだが、実際は70億人からの人口がある。
各々が好きに生きてしまってはこの世界は混沌のるつぼに陥り、即座に全人類は滅ぶ。
もしかしたら地球が割れてしまうかもしれない。

それを防ぐためには、ある程度統一された意思を持たねばならない。
そうなると、当然似たような人々が集まり共同体を為し、似たような思想に統一され、リーダーを選出して各々の共同体の発展や維持に手を尽くすはずだ。
そうすることで自身の幸せが増進することにもなるのだから。

しかしそうした共同体も、世代を経ると動機の純粋性は薄れてしまう。
そうなるとオリジナルの思想を持つ者は上澄みにかたまってしまい、結果としてトップダウン式に啓蒙していくことになる。

しかし、純粋であるということは変質しやすいということでもあり、小さい変質が積み重なって、数世代を経る頃には大きく変質してしまっているのはマルクスが著作"資本論"で記した共産・社会主義が、「労働者のための平等な社会」から「少数の上層部の懐を暖めるために多数の労働者が富を生む社会」に成り果て、「赤い貴族」を生み出すまでに堕落したことからも明らかである。

さて、そこからこのフェミニズムというものを論じると、まずはもともとは1789年にフランス革命により人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)が採決されたが、その権利を男性にのみ与えていることを問題視した女性が抗議運動を行い、欧州各地で女性の権利を求める運動が定着した。(wikipediaより引用)とされている。
もちろんこれは当然で、人間である以上この平等について妥当性があることに異論は微塵もない。
しかし、事実としてこの日本でフェミニズムは明らかに変質した。
それはなぜか。

私は機会の平等にこだわったためだと思う。
日本社会はもとより農業型で、「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」という具合に本来的に外政と内政で分化しており、それによっておおよそバランスが取れていた。
しかし、それを良しとしない勢力があり、その勢力の目論見どおりであれば、税収は倍であった。
つまりカラクリはこう。
「男がどれだけ働いたところで、収入は倍にならないし、収入が倍になっても税収は倍にならない。
そうなると労働人口を倍にする必要がある。」

そこで遊んでいる女に目をつけ、働かせようと思ったのだ。
まずは「男は自分たちだけの楽しみを持っている」と印象付ければ嫉妬深い女は「ずるい!」となるのは間違いない。
次に「女は家庭に押さえつけられてかわいそうだよねぇー」といえば、流されやすく自分に甘い女どもは「そうだよねぇー」となってしまうのは想像に難くない。
そこに「女も社会に羽ばたいて自由に生きるの!」「強くてイケてる私たち!」「男と同じくらい働いて恋愛もエンジョイ!」といえば陥落だ。

しかし現実はどうだろう。
男の仕事にルーチンワークはない。
創造性や体力や情熱が要求され、簡単に勤まる仕事など基本的にはないはずだ。
それに気づいた女どもから脱落し、専業主婦を希望するようになったではないか。

そこで本来的にフェミニストは「女性には女性にしか出来ないことがあるんだよ」というべきだった。いや啓蒙すべきだった。
しかし、バカマッチョ・クソマッチョどもが圧倒的な似非フェミニスト勢力の口車にそそのかされた女どもに嫌われることを恐れて真なるフェミニストを非難し始めた。
その瞬間、フェミニストは死んだのだ。

その結果バカマッチョ・クソマッチョどもがフェミニストに成り上がり、どんな女の妄言も否定しなくなった結果、女の増長はとどまるところを知らなくなり、男に見捨てられて今日の生涯未婚率激増に至っている。

真に相手のことを思うということは相手の言うことを鵜呑みに、妄信するのではなく、冷静に考えた「ちょっと違うんじゃないか?」と思うようなことを是正し、互いによりよく生きるという目標のためにともに歩むことである。

そのためには相手の痛いことや自分にとって不都合なことを言わなくてはならないこともある。
しかし、現行のフェミニストはこれを放棄している。
これでは、本質的な男女平等など進まない。